1.北海道と私 (その1)  羨ましい限りの自然環境と交通事情の伸びやかさ
 私が初めて北海道に私的な旅をしたのは、結婚10年記念の時でした。  
家内から修学旅行で来たときの、素敵で大きな風景の話は聞いていたのだが、実際に車で走ってみるとその景色の壮大さは、子供を親に預けてきた夫婦ふたりだけの開放感と相俟って、一層嬉しさが迫り、美幌峠から屈斜路湖を見おろした時など、『 こりゃあ日本じゃぁないわァ 』と心底から感じ入ってしまったものでした。  
 このあとに続く晴れ渡った摩周湖の景観に、これでもかと打ち寄せられホトホト降参してしまいました。  

私の知っている日本の観光名所とは、どれも土産物屋や旅館が建ち並び、団体の観光客がぞろぞろと引っ切り無しに行き来して、何十台ものバスを誘導する笛が鳴る場景が普通で、コセコセしたものです。  

それに引き換え、北海道は道が広く良く整備され、交通渋滞は滅多に無く、高速道路での運転は実に穏やかで料金に値打ちが感じられます。 観光地での景観の規模当たりの客人数は本州の二桁違いの爽やかさで、見る側の人間にゆったりとした価値が出ています。 

殊に情けないのは首都圏界隈で、交通機関は総て利用者を人間扱いをしていない。家畜以下のゴミ並みの扱いに客は我慢させられている。 ついでに言えば都内の環状道路の慢性的な渋滞などは、延々何キロにも及び、走行する車種が低速時の排ガスが煤一杯で真っ黒なうえ高濃度なCOやNOxを撒き散らす大型なディーゼル車が圧倒的なため、環状道路の周囲に毒ガス帯を作り、上空には環状道路と同じ形の長い長い雲が湧き起こる、奇怪にして不気味な現象が現実に起こっているのですよ。 さらに、ついでに言えば朝夕の出退勤務時の各3〜4時間と五・十日(ごとうび 掛け取引の集金日 月に数日あり)の全日の「首都高」は主要な出入り口などにある電光掲示板の案内経路画面が、全画面とも余す所一点もなく渋滞を示す真っ赤に染まり、高速道路上には車が前進する隙間が全く無くなったのかと感じさせる状態が続き、この全面凍結氷が融解し始めるのに夜更けまで待たねばならんのかの如き暗澹とした気持ちにさせられる。  
 ここまで言い出したら、首都圏に住んだ10年余の鬱屈したかの地の交通事情への恨み心地が再燃し、もうひとつ言い足したい。 日帰りコースの行楽地に出掛けようなら、行楽地からの帰り道では、主要国道に入る交差点の信号待ち一箇所だけで1時間から2時間の浪費を覚悟させられる。 
  これほどアホチャウカ現象が日常的に随所に発生している。  

近頃では「安全」に就いては言い辛くなりましたが、以前は「日本人は安全と水は只だと思っている」とよく言ったものでしたが、これと同じ論法で言えば北海道の人にはスイスイ車で走れるのは当たり前のことで、その本当の有難味は一生実感せずに済んでしまう人が圧倒的に多い筈だということです。  
 私がくどくど首都圏の交通事情の馬鹿げたさを話したのは、其の為に費やされる時間、心身労力、費用とそれに伴う負の文化から北海道の人達は避けて過ごせる事の有難味を知って欲しいが為なのです。  
これほど恵まれた様々な大自然と、札幌という人口200万人近い指折りの大都会から1〜2時間で到達できる環境条件を備えた地域は、日本中はおろか世界中でも珍しいのではないでしょうか。  
 どうか自由になる無限の時間と、外出できるに足る体力と、外界の風を愛で得る感性が残っている間に、神さまにお恵み戴けた貴重な賜物を思うざま享受されんことを。


2.北海道と私 (その2)  北海道スキー事情の考えられない絶好条件  
 私が初めて北海道でスキーをしたのは10年ほど昔の12月の初旬の富良野スキー場でした。  
それまでは長野の白馬山麓か、新潟の上越地区で滑ることが多く、それらの地方でサラサラの粉雪に回り逢えるのは、1シーズンを通しても2〜3回のことなので、1〜2月ならいざ知らずシーズン初めではどうせベタベタで当然と何も期待していませんでした。  
 ところが何とコースの上から下までパフパフのアスピリン・スノーじゃありませんか。 
この時もまた「 こりゃぁ日本じゃないでェ 」でした。  

でも北海道ではサラサラなのが雪であって、べたべたしたのは半年近い積雪スキー・シーズン始終期のほんの一時的な雪質なのだと、ここに2年余住んでみてしっかりと理解できました。  

 私は札幌大通東住まいなので、好い天気でちょっとスキーにと思えば殆んどは藻岩山スキー場へ行く事になるが、ここで仲良くなった人達はちょっと雪がべた付くとオモロナイな今日はとスキーを止めてしまう贅沢さに、当地ではこんなものかと驚かされた。
こんな振る舞いをしておれば、長野や新潟では滑る日が、シーズン中に無くなってしまう事だってあり得る。  

私とスキーの関係は、それまでの付かず離れずの姿勢だったのが、60才前後から急にのめり込み、新潟の上越スキー場に冬季間リゾート・マンションを借り土日・祭日・年末年始をフルに通い詰めて数年、仕事を離れたあとの年にはシーズン中ほとんどを其処で暮らすほどの狂い様だったのだが、北海道の雪を知ってしまった今となれば、あんな雪の何が良くて首っ丈になっていたのか信じられない心境で、『 私のスキー人生を返してくれー!』と叫びたくなります。  

単に雪質だけの話ではありません。理想のスキー場に回り逢えて興奮し、娘にその夜メールで送った報告文をお示しします。

真美ちゃん   
 ルスツスキー場はわたしの過去に滑った中では、最高のものでした。  
こんな素敵なスキー場を知りえたことは私のスキー人生にとって、この上ない好運だと感謝いたしております。  
@規模 A傾斜度 B設備 C景観 D雪質 E混雑度 F整備等々どれを取ってもトップに位し、これらの要素がこれだけバランスよく備わっている例は見たことがありません。  

@については3つの峰にそれぞれに、幾つかの方向からゴンドラやフード付きのリフトが付いて、選り取りみどりにコースを選べる
 こと。その上一番奥のコースへ行くには手前のコースから順々に登り滑り降りなければ辿り付けないため、初級者は全く近付け
 ない仕組みになっていて、滑っている人の技術レヴェルが揃っていることです。  
Aは中級コースなら中級レヴェルの傾斜が延々2000メートル以上も続く愉快なコース設計になっていて、持続する緊張は堪り
 ません。  
Bゴンドラか2千b以上の高速リフトの場合はフードが付いていて、寒風対策が採られていて快適な登高が出来る。
C頂上からの景観は羊蹄山、洞爺湖、太平洋、その手前には霧氷林が広がり美しい。  
D上から下までパウダースノー。何月までこれが期待できるのでしょうか。  
E土曜日と言うのにリフトはほんの数台待つだけの混み具合。  
F中級コースは凸凹皆無。朝一番の圧雪したてのコースを滑るときは、空中を飛び漂うような感覚に浸ります。これはこの世の天国
 ですね。  

まさに『日本一のスキー場』で最高の天候と好いスキーの友と過ごせたことでした。


3.北海道と私 (その3) 北海道の大らかさを計数的に把えてみれば
 北海道と私(その1)で東京の混雑ぶりと北海道のゆったりさを比較して書いていると、実際の数字の上ではどんな値が出てくるのかなあと気になりだした。  
 気になるとじっとしていられない質で、ホームページで資料をあれこれ見てみました。

人口(万人)
面積(平方`)
人口密度(人/平方`)
北海道
       565
83,500
        68
東京都
1,208
 2,200
5,524

これでは比べようも無い数字ですね。半分以下の人数で40倍ほどの広い所に住めば、そりゃ人の込み具合、空き具合が2桁違いのほぼ100倍・1/100になる道理ですわ。

私は不勉強なことで、北海道と九州の面積を比べると九州の方が大きいと単純に考えていましたら、なんと
北海道 =(九州+四国)×(1.3 倍)
北海道 > 九州 × 2倍

だそうでこれにはビックリしました。これは『 1道 』と 11県の行政単位上の数字のもたらすマジックだったのですね。

これで見ると北海道はあまりにも広すぎて実感に見合わないなら、お互いの都市部どうしでの比較をしてみましょう。

人口(万人)
人口密度
札 幌 市
185
1,650
東京23区
中心区  15〜30
周辺区  50〜70
8,000〜18,000
(中間値  15,000)

こうしてみれば札幌市は全道に比べて20倍以上の混み具合ですが、それでも東京の23区は札幌の一桁違いのほぼ10倍の密度です。 その上にこれらの数字は夜の数字で、昼間には東京に隣接する神奈川・埼玉・千葉各県(この3県の合計人口は東京のそれの2倍にもなる)から京浜東北・総武各JR線の殺人的混雑列車や網の目の私鉄線での大津波が毎朝攻め込んでくるのです。

よく東京は仕事をする所で、住む所ではないといわれますが、それが示すのはこの異常な『人間集積構造』なのですね。  
 確かに作業の効率は高まり、第3次産業の桁外れな発達を齎らせ得るでしょうが、都心部への通勤の実態は人間の尊厳はおろか生物の耐域をはるかに超えています。これは軌道交通、自動車交通両者ともに言えることです。  

私もこの馬鹿げたJR京浜東北線で一年半通勤したことがあり、首都高を数年間毎日のように走ったことがあり、今思い出しても人を人間扱いしていないまま何十年も何の施策も講じさせない社会・行政構造に腹が立ちます。  
 世界にも稀なこの巨大都市空間に住んだら最後、猫の額ほどの土地を所有するために、ローンで資金を調達し、それを返済するのに働き詰めに働いてもまだ足らず、退職金も殆んど持っていかれるのが東京の俸給生活者の実態です。  
 何の為の人間の一生なのか訳が分からなくなりますね。  

北海道で暮らし立派な邸を構え、世界一大らかな自然に恵まれ、悠々と過ごされている皆さんは、日本一ハッピーな洋友会員ですね。


4.北海道人はアメリカ人より新世界人 (その1)
 私は比較的あちらこちらと日本の中を住んできた部類の人間だと思います。  

生まれは大阪、勤務地は東京が最長で10年余、中部・東海がそれに次ぎ、関西、東北と続き定年後は奈良に5年住み現在は北海道で2年半近くの滞在になります。  

夫々の土地で接した人々から、その土地なりの気質めいたものを感じてきましたが、それがどれ程あたっているか分かりませんが書いてみます。

関西人
 関西人と言っても京都と大阪では大きく違います。何と言っても京都は千年余のあいだ都であり、『みかど』がおらっしゃりました処だけに、その雅やかなことは人間の営み衣食住総てに亘り行きわたり他を寄せ付けません。  
いっぽう大阪は都であったこともあり、太閤さんのときには行政の中心でもあったのだが、永年のあいだ日本の流通の大拠点であった性格が染み込んでいます。したがって人の振舞いは厳しくハッキリとしている。街の中心部の古い家の人たちは落ち着いた上品な物腰をしておいでだが、一般には上品ぶったりすると「ええかっこしい(柄にもない恰好をつけている馬鹿ものの意)」と軽蔑の対象になる雰囲気が濃厚にあります。この傾向が必要以上に大阪人のガサツで下品な物言いの原因になってしまい、他所の人たちから嫌がられることにもなっていますが、そんなことを気にも掛けない自信がまた大阪人らしさなのでしょうね。ある意味、大阪人は愉快な偽悪者なのでしょう。

東京人
 他所の人は東京の人を見ると皆がスッとしていて、気の利いた、野暮ったさの無い人種に感じ、地方から東京駅に着けば駅構内や丸の内界隈を歩いているご婦人はみな麗人に見えてしまうらしい。また見られる側の東京人もそんな風に見られようと、精一杯に費用と労力を惜しまない心掛けらしいですね。  
 しかし東京人といっても三代前のご先祖からの東京の街中住まいの人は少数派であって、圧倒的な人は親の代か自分自身が御のぼりさんで住みだした人達だそうです。  
 三洋電機の東京の職場を見ても、『江戸っ子』は数%で他は地方人だったのは、三洋電機が戦後の会社なのでそうなったとは言い切れないようで、一般的にも何処でもこの傾向ははっきりあるようですね。
  私自身の体験からも、周りの人が皆綺麗に標準語を話すので分からなかったのですが、親しくなって聞いてみると9割以上の人は地方の学校を卒業して入社していました。関西人以外の他県の人達は自分の出身地の言葉を話さず、標準語を綺麗にマスターし、涙ぐましく江戸っ子弁まで喋られますね。
 そのような訳で東京人気質の実体なるものが、私には分からなくて、強いて言えば江戸の町作りによる寄り合いと、明治の首都構築の体裁がもたらしたお行儀の善さが今日の気風を作り出したのではないかと感じていますが。
 確かに東京の人たちは、電車の乗り降り、車の運転、会合の席上、社交の場等々での自制の効いた周囲への心配りは特有の洗練を感じますね。 これは大阪や名古屋が大きな都会ではあっても、大阪・名古屋には全く期待し得ない東京の美点ですね。 これは東京の民度の高さがもたらす生活態度のゆとりが表れている自ずからなるものだと思います。

東北人
 私が東北で過ごしたのは僅か1年半でしたが、その伸びやかな風土と人情の優しさに、冬の寒さに耐え得る体力が定年後も保ち得たなら、何年かここで暮らし直したい願望を抱かせる素晴らしさをこの土地は備えていました。  
 明治の初めに西欧文明の導入のために大勢の欧米人が招かれましたが、それらの指導者が感じ取った当時の日本人の『素晴らしい素直さ、長じたものを具えた人への畏敬の純な姿勢』に似たあるものを未だに失わず、心の宝物として保ち続けてきた美しさを見せられてしまいました。  
 古来日本人が持っていた美点、思い遣りのこころ、へりくだりの姿勢、新しいものへの開かれたおだやかさ、そうした美点の純粋に近い培養土壌がまだこの日本に残されていたのだなあの感を強くしたのを鮮烈におぼえています。

北海道人 
 私が北海道を旅して感じた事は、変な視点からかも知れませんが、街を出て彼方此方回ってみてお寺が少なく墓地が目に付かないことです。  
 寺は千数百年の昔から統治行政上に利用され、住民の葬祭をはじめ生活一般にも日常的に緊密な関連を持ってきたものです。 しかし明治時代には邪魔者の扱いを受け廃仏毀釈運動の嵐に曝されました。 でも北海道はその点爽やかなものでその運動の対象物が皆無だったのですものねえ。   
 まあ他地区の日本全国どこへ行ってもテンコ盛りのお墓が群れていますが、これの意味するものは現世の生活者への先祖からの永い永い縁の累積や、所属するムラ社会のしがらみ、七面倒な因習、くちうるさい何代にもわたる噂話等々の厄介千万の結晶なのです。  
 その点、北海道の人たちの当地でのご先祖は、せいぜいが曽祖父か祖父の代からでしょうから子孫にとっては、その面影が窺える範囲内ですね。 それが北海道の明るさを創り出しているのだと、よそ者には感じられるのです。  
 一般に新世界といえばアメリカを指しますが、日本においては北海道が日本の新世界です。
いろいろなムラ社会のシガラミを文字どおり断ち切って、新天地に生存を決意した人達の世界こそが北海道のすがたの根幹をかたち創ってきたのだと思います。
 『新世界』、『新世界人』。このことばの響きはなんとこころ打つことでしょう。
何ものをも生み出さない閉塞感の固まりのような人間関係、すべての可能性を圧殺する社会集団、何世代にわたり強固に構築されたヒエラルキー、これらは見るも嫌な存在。
 自信と体力があれば誰でもそうしたい。この開放感・自由な空気・無限の可能性をもとめて進みたい。北海道はそんな夢を用意してくれたのでしょう。これぞ北海道。これぞ新世界。  

このあと @ やさしさ Aほがらかさ B親密さ C活発さ 等々の北海道人気質について項目を整理し始めましたが何を書いても、北海道の人を対象のホームページに書くには褒めても歯の浮くような事になるし、厳しい見方をすると義理を欠くことになるしで、皆さんの面影を思い浮かべて書くのは止めました。

代わりに北海道の人類学上の興味ある読み物に出会い強く心惹かれましたので、それを紹介してお茶を濁しておきます。 (以下次号へ)


5.北海道人はアメリカ人より新世界人 (その2)
 一昔前までは、北海道の先住者であるアイヌの人たちは、日本人と普通に称している種族とは全く異なった人たちで、極端な学説には「白人説」までとびだしていて、私もへえそうなんか、あの容貌からすればそうかもしれんなあと半ば納得した記憶もありました。
 いっぽうでは、ここ数十年間に地球上をさわがせている民族紛争問題を背景にして、「日本人の民族的単一性」の貴重さがクローズ・アップされる事が多くみられていますが、これは学術上ではトンでもない把え方で、日本ほど民族複合の特異な実験場はアジアでも稀有な場所だそうです。この複合の流れをかたち創るのが「縄文人」と「渡来人」なのです。
 そうした視点からすれば、複合・混血の産物である日本民族のなかでは、すこぶる付きの純度の高さを保ち続けたのがアイヌの人たちなのであり、いわば我々の御先祖さまの『原種』的存在として超貴重な人たちなのですね。アイヌの人たちこそ『縄文人の代表選手』として直系の形質を保持し続けた人たちなのです。その形質とは「彫りの深い顔、二重瞼、ぱっちりした目、比較的長い手足、濃い体毛、濃く太い眉、湿った耳垢、大きな耳たぶ」等々なのですが、これらの特徴は地球上の人類の多数派のそれでもあるのです。そして約一万年前から始まり約2,300年前まで続く世界史的にも特異な存在としての縄文文化の担い手だった人たちです。
 最近の滅茶に進んだDNAの解析技術が示すところでは、6,000年も前の縄文人の化石から抽出したミトコンドリアDNA配列が今生きているアイヌの人、旧モンゴロイドの代表のマレーシアやインドネシアの人達と完全に一致しているのが分かったそうです。

話が縄文人のことになれば、日本の中での新参者「渡来人」のことも一言。渡来人の出モトはモンゴロイドであり、これはヨーロッパ人種(コーカソイド)と分かれたアジア人種(モンゴロイド)の一部がマンモスを追いかけ、まだ氷河期で厳しい寒さだったシベリアに住みついた。(このシベリア組の分家を南の方の居残り組みの本家と区別するため、前者をモンゴロイド、後者をモンゴロイドという。)
 その結果が「寒さへの適応の極み」の形質を獲得させた。一重瞼の細い目、頬骨が突き出た鼻すじの低い扁平な顔、胴長短足、スラリの反対の丸っこい体付き、薄い体毛、薄い眉、乾いた耳垢等など。これらの特質は凍傷や凍死や雪盲から身を護る上で決定的な効果を発揮した筈だが、残念!!
 氷河期を過ぎ、コーカソイド文化がアジアの美容規準を支配した結果、渡来人の子孫は大先輩の新モンゴロイドの人達が何千世代にわたり、文字どおり命懸けで手に入れた貴重な形質を否定し整形外科医院に駆け込んでいる。渡来人系のみならず、渡来の拠点である隣国にあっては、大統領までもがお目めをいじくったと言う。もうそこまで来ているのかの感や強しですね。
・   ・   ・   ・   ・   ・   ・
 それぞれの地方のひとの気質の話が、民族の形質比較に、それが整形美容とは論点が右往左往ですみません。大阪ではこんなとき「あのひとの話はハッチョゥミトコロやなア」と言います。


6.相原求一朗美術館がうったえる物
久保さんの故郷広尾の隣町、中札内に美術村がありその中の一施設として相原求一朗美術館があります。六花亭の文化活動の一環で作られた施設で、観賞のための環境と構造が素晴らしく、絵を愛する人、北海道の美しさを改めて心に刻み付けたい人には必見の絵が展示されている。滞欧中の作品を含み、ちょっとした生涯展としての迫力ある作品群ですね。  
 粗い林に面した増築棟は雰囲気満点で、もし連れがいなければ、私など一度入館すれば半日は出てこないだろう魅力に充ちている。  
まずは何と言っても相原画伯がライフ・ワークとして取り組んだ北海道の山の姿を追い求めた一連の大作群の迫力が凄いですね。  
 
  新緑のニセコの高原のむこうにのぞく薄紫色の羊蹄山  
  ふもとの草原の雪が消えた頃の、まだこちらは真っ白の旭日岳   
  地平近くだけが仄明るく高所は暗い雲に噴煙を突き上げる厳冬期の十勝岳  
  海から屹立する晩春の利尻岳  
  作家にとって最も心を奪われた山、斜里岳のたっぷりな残雪の艶姿  
  それぞれの季節の雌雄両阿寒岳  
  錦繍の羅臼岳  
  裾野まで真っ白な幌尻岳  
  待ちかねた想いの春一杯の美瑛の野のむこうにまだ真っ白なトムラウシ  

関東人の相原画伯が作家寿命の半分、30年間を北海道の山に惚れ込み、ひたすらカムイの座を画き続けたほどに茲は魅力が有り過ぎたのですね。  
 私なんぞはたかだか2年ちょっと居ただけで、せいぜいその匂いを嗅がせてもらった程度にしか過ぎないのでしょう。  
 絵を描くことに縁のあった洋友会絵画クラブの皆さんは、おそらく残る一生30年ほど北海道に住み続けるわけですから、この心牽く山の姿を大傑作の作品に描き留めてサン・カルチャーに出品し、洋友北海道文化の名を昂められることを希うばかりです。

(下に六花亭のホームページに掲載されている案内をコピーしておきました。)
相原求一郎美術館
Aihara Kyuichiro Museum of Art
概要
紹介
埼玉県生まれだが、1962年に訪れて以来、北海道の風土に魅せられ、30数年にわたって
北海道を題材にした絵を描いている相原求一朗の作品を収めている。
建物は、札幌軟石を使った歴史的建造物の旧帯広湯を移築・復元した本館と新築の別館、
フランスを中心としたヨーロッパの風景を描いた作品が展示される増築棟がある。
同じ「中札内美術村」敷地内にある北の大地美術館とは旧国鉄広尾線の枕木を使ってつくら
れた遊歩道で結ばれている。
住所〒089-1366 北海道河西郡中札内村栄東5線
TEL0155-68-3003


7.美しい北海道の山とスキーと私 (その1) 手稲山
 前回の相原画伯の事を書きましたが、北海道と絵と山の3つの首題で大好きなものが並び、私にとっては格別な存在なのです。
そのような訳で、北海道での私の山登りとスキーの事を話します。

札幌での長期滞在を決心し、さて「何処に住むか」と不動産業者に案内してもらいました。  
 そのときの希望の候補場所は @「スキー場の隣接地」か A「スキー場に遠くなくて、しかも海の見える丘の上」の何れかでした。  
 この「スキー場の隣接地」としてのイメージには、上越線の湯沢駅に近付くにつれ並み居るスキー場に寄り添い林立するリゾート・マンションの姿がありました。 湯沢には何十棟というマンションが摩天街を構成しているのに対し、札幌のスキー場近くにも、少なくとも数棟から多ければ十数棟のリゾート・マンションが存在するものと思い込んで案内してもらいました。  
 ところが何と一棟も無しで信じられない思いをしたものでした。バブルの時には上越スキー場の開発は凄まじくリゾート開発業者は我先にと超高層マンションをニョキニョキ建設し、毎年様変わりを見せていたものでした。関東在住の人達にはそれを所有することがステータス・シンボルの有力な決め手だったのは確かです。

[私が北海道滞在をするまで、5シーズン借りた3種類のマンションのうち、最後の年に契約した物件はコレデモかと言う設備がしてあり、地元はおろか東京でまで話題の対象になっていました。プール・アスレチックルーム・図書館・グランドピアノや巨大な暖炉を備えたエントランスホールは当たり前、300人は収容の劇場からバスケットボールが公式で競技できる体育館が住居棟に立体的に組み込まれた超巨大なものでした。(竣工早々の頃どんなものかと物珍らしさに見に行きましたが、入居者でもない身には大手を振って正面玄関から入る訳にもいかず、スキーヤーの出入り口から侵入したまでは良いが、ホールから先はスキー靴での歩行禁止で万策尽き果てるも、好奇心には抗しきれず、靴を脱ぎ足袋裸足でうろついた良い歳をしての気恥ずかしかった記憶が残っています。「何でも見てやろう精神」もほどほどにしないと、将来いつかは妻や子や孫に恥かしい思いをさせかねません。自重しましょう。)
 当時での家賃は数十万円から百数十万円だったでしょうが、バブルが弾け見る見る相場は急降下、私の時には数万円の気楽さでした。お話が長々脇道に逸れて失礼しました。スンマセン。]  

ですから、その余波が北の大地にも飛び火して当然だとの思い込みが頭の中に定着してしまっていたのでしょうね。然るに、その様な物が何一つ無い姿を見て「何故だ。」でした。 さらには、海の見える丘の上のオウチも存在せずで、「棲み付く場所」としては手稲地区と縁がありませんでした。

 手稲山はスキーのシーズンオフに歩いて登りもし、スキーにも何度となく行きました。 オリンピックに使ったコースも地元の競技大会の前日など、よく整備されたコンディションの時に繰り返し繰り返し滑り堪能させて貰いました。  
 歩きに行ったときには、札幌市委託の公園監視員の人と出会い、その人の話で手稲山にも熊がいるとのことで、札幌のような大都会の裏山にまで熊さんお出まし有るかと驚きました。


8. 美しい北海道の山とスキーと私 (その2) 恵庭岳と支笏湖
 北海道に住みついて間もなくの頃は、手近かな山は独りで登り、泊りがけの山は専門のガイドに連れて行ってもらいました。
独り行きとガイド連れでは心得が違ってきます。  
 人間70才を過ぎると、過去、物心が付いて60年以上経験をしたことのない思いも寄らない平衡感覚の失調が起こり、トンでもない事故に結び付きかねない。  
 樽前山のような登り口から上部まで路が見通せる所なら何が起こってもドウと言うことはないが、恵庭岳のように路の片側が火山の爆裂口に面していたり、頂上の岩峰直下の垂直近い登降場所のある山では、ひょっとするとヒョットする事態が起こり得る。  
 私の「万が一の事態」という事に抱くイメージは次のようなものです。  崖下に墜落したとする。鮮やかに、何の未練もなく一発で阿弥陀様のお迎えが得られれば申し分なしです。  
 だが、そうは旨くいかず、脚が折れたり首から下の感覚が無くなったりして身動きが出来ず、呼べども誰もいない。呼ぶにも声が出ない。  
 こんな悲惨な状況で、餓死するまで何日も生き続ける恐怖の時間を過ごさせられるのだけは御勘弁願いたいものとの配慮から、下山に際しては最後尾で降りることにならないように、2〜3組の人達を残して、お先に降り始めるように心掛けています。(こんな思いをしてまで、いい年コイで、いつまでも山登りなんかしなくても良さそうなものとの考えもありましょうが、これは山好きの業(ごう)なのでしょうね。棺桶までのお付き合いになりましょうか。)    

 恵庭岳からにせよ樽前山からにせよ支笏湖の眺めは、高低いずれの場所からも小ぢんまりと美しく静謐そのもので、私の最も親しみを感じる湖です。  
 支笏湖畔でのバーベキュー遊びに付き合ったことはありますが、自分からキャンプをしたことはありません。でも、いつの日か自分でキャンプをする気になるようなら、やって来たい第一番の候補地になりますね。
  親しんだ密度が一番濃い事と、平日の限りない静けさに惹かれるからでしょう。オコタン・キャンプ場の、まわりに他のテントも無く川が流れ込む場所の隣で、ぽつねんと独り景色を眺め、過ぎた時を想い、取りとめない絵を描いたりして過ごせたらなあ です。  
 恵庭岳は札幌に住んで早々、支笏湖まで家内とドライヴをし、道が山中に差しかかりした時、忽然と異様な形態をした山容が現れ「何じゃこりゃァ。」のビックリが最初の御対面でした。  
 そんなわけで、これは登らにゃと決心し、札幌移住後、麓から歩いて登った最初の山になりました。岩峰の頂からの支笏湖の眺めは、巨大な銅鑼が横たわった様にギラギラと輝き、地球が北海道を創り上げた様を描いていました。

 豊平川の河川敷を大通東から真駒内公園までマウンテンバイクで幾十度となく往復したとき、いつも川上に恵庭岳がその特異な姿を見せてくれ、すっかりのお馴染みさんに成ってくれました。
 ゴキゲンヨウ 亦ネ の存在です。


9.美しい北海道の山とスキーと私(その3) 暑寒別岳・雨竜沼湿原 
 暑寒別岳には中腹に池塘群のある雨竜沼湿原が横たわっているのを知り一も二も無く出掛けました。  
私は何故か「池塘」の佇まいが大好きです。  

最初に池塘群とお目に掛ったのは富山県の立山の西に広がる弥陀ヶ原のそれでした。
 今は「黒部ルート」と超人気観光地化して、歩かずにケーブル・バス・ケーブル・バスと乗り継ぎ長野県の大町側に着いてしまう。 私の学生時代はエッチラの坂登りと、その後の延々と続く高原の縦断が立山・剣岳登山の前哨戦。そこに日本一の豊かな残雪(5月で15〜20mの深さ)が描くゆったりとした縞模様と無数の池塘群がありました。その景色は何処までも何処までも続き、気高さを帯び、私には神の遊び給う庭だと受けとられる程でした。昔の人は阿弥陀様が来迎なさる処とありがたく観じ喜んだのでした。
 今はバスが満杯の乗客を積み走り来たり駆け去る呆気無さが残っているのでしょうか。  

次ぎに親しんだ池塘群は日本一有名な尾瀬ヶ原のそれでした。
 ここは人の少ない時を選ぶのが、この地を楽しむ第一の要諦です。  
夏休みに東京から家族連れで行ったときには延々長蛇の列であったが、福島三洋を任された1年半の間には2度出掛け、シーズンオフで湿原一面の花を楽しませて貰ったものでした。田舎住まい満喫の素敵な時間でした。

そんなわけで一寸した下見のつもりで出掛けたものの、雨竜沼湿原は期待の何倍も美しく爽やかで静かでした。  
 ここへのアプローチはペンケペタン川の川筋から離れ、ちょっとした登りを了ると湿原の入り口に着き視野が開ける。暑寒別岳の山群が盛り上がるあたりまで拡がる一面の湿原は、予期以上の広大さでした。  
 桟道は良く整備され、訪れる人はほんの数組で、神の寵幸を体感する静けさに充ちた大湿原のたたずまいでした。 多種の花々は初夏の湿原を彩り、趣を競っていた。  
 折角のこととて行ける処までと湿原の端の登り口より昇りにかかる。陽もかたぶきはじめ、南暑寒別岳より本峰を眺め、次回の訪頂を念じて下りました。  
 帰路の湿原には、一組のカップルが残っているのみの夕方の寂しさがただよい始めていた。 私はできるだけゆっくりと歩を運ぶ。 カップルが見えなくなり、この眺めのなかに独りだけ身を置きたいが故です。この恵まれた情景を独り占めする快楽を味わい尽くしたい。  泣きはしなかったが、泣きたくなるほどの充足感につつまれました。   70才を越え、北海道に住まい、身に不具合を持たず、こうした山と湿原に出会え、そのなかに浸りきる。
 有り難たや ありがたや アリガタヤ  ・・・

足下が見えるうちに下の川原へ降りられれば問題はなし。 熊さん 静かにしていて下さいね。


10.美しい北海道の山とスキーと私(その4) トムラウシ岳
 トムラウシには2度訪れています。お花畑の盛りの頃と裾野が紅葉に飾られたときとでした。  

 大雪山系の主だった山々は、周りに広大な高原状の台地を纏っている。もし同じ地形が、長野・山梨県の中部山岳地帯と同じ場所に在ったとすると、これらの台地には樹々が欝蒼としげり、深い樹林帯を造っているでしょう。
 でも大雪山系は高緯度に位置するが故に、森林限界線が低く、そのために台地はいずれも草原として拡がり、『北海道の山々』といえば高低差の少ない、おおらかな草原台地に囲まれた山の容姿がイメージとして私の中では定着しています。
 殊に豊かな残雪が消えはじめ、楽しい形の縞模様を見渡す限りのスケールで描くときのリズム感は、他所では見られない大々傑作のオブジェであり、振るいつきたい美形。

 それが春から初夏へは限りない規模のお花畑を展開してくれるのです。まさに行けども行けども尽きずの感にひたり「ウットリの夢の中もの」ですね。
 美瑛の林道からトムラウシに入った時がそうだったのです。
中部山岳の北アルプスでは可也の高度にあるお花畑に皆キャーキャーだが、北海道では一日の殆んどがその対象で、それが当たり前で皆は黙って感興に身を浸すばかりになってしまう。  
 北海道のお花畑から見れば、北アルプスのそれは猫の額に毛の生えたほどのプチプチ振りです。殊にトムラウシを西側から近付けば、長いアプローチ分、球技の競技場を何百面も並べた規模のお花畑に埋没してしまう世界。もう一度言ってしまうが、行けどもいけどもの天国が用意されていました。  
 死ぬまでに、あと何回ここに遊ぶことが出来るのかの思いや切なしと言ったところでしょうか。
        
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 二回目のトムラウシはダイレクトなアプローチでなく、朝日岳から始まり錦繍の森を足下にしての山路をたどり、途中2泊・全3泊のドップリ行程でした。  
 この年の夏は殊に涼しく、秋が早く紅葉は壮麗を通り越し凄麗な樹海がひろがり続き、眼前のトムラウシ山塊には前日の初冠雪が神々しく輝いた情景に、至高の美観を得て、心は昂ぶりの極致に達した。私はこのレヴェルの高揚感を生涯に数度経験しているが、おもわず涙がにじみ流れる。この涙には多分「あゝ美しすぎる」の他に、「 有難たや」の念が占めている。 こうした景観にめぐり合えた幸運、それを可能にした体力、こうした場を求め続け得た嗜好等々への喜び心なのでしょう。この世に生まれ、この場に身を置く出会いの不思議と感謝なのでしょう。

トムラウシはどちらから近付いても、最高のアプローチを用意してくれる心憎い山です。


11.美しい北海道の山とスキーと私(その5) 漁岳その他の山スキー
 札幌から支笏湖へ向かうと、最後の下りに入る手前に、恵庭岳の西側を通り湖畔にいたる分かれ道があり、観光客はその道の目玉であるオコタンペ湖という名の深山の静かな可愛い湖を目指す。  
このオコタンペ湖の展望台から湖越しに見えるのが、左に小漁山で右が漁岳(いざりだけ)です。  
この山には登山道が無くて、普通では夏には登れません。冬であれば深い雪が、夏には邪魔をするブッシュを下敷きにしてしまうので、山スキーで登る事が出来ます。  
 そのような事情を山の本で知っていた私は、この漁岳の上からオコタンペ湖を見下ろしたり恵庭岳の向こうに光る支笏湖を眺める楽しみを味わうこと無しに北海道を去るのだろう、「そういう御縁の薄い山なんだ。」と見上げたものでした。  
 関西や関東では「冬でないと登れない山」など捜しても見当たりません。これは北海道ならではのことで、一年の半分以上、場所によっては3分の2に近い期間、登る経路が雪に閉ざされているが故の事情があっての事なのでしょう。   

ところが縁はどんなところに在るか分からないものです。私が藻岩山のスキー場のリフトに一緒に乗り合わせた人がMさんで、元札幌市にお勤めだった方でしたが、山が三度の飯よりも好きと言うほど、北海道の山は殆んど全部何度も登り尽した山字引きのような人でした。したがってお仕事の現役当時には、市民を対象にした登山指導の活動にも熱心で、私が山スキーも大好きだと話すと、次の時には誘いますよとなった。何と、その一回目が「漁岳」だったのでした。  
 Mさんの愉快な仲間と一緒した漁岳は、ご縁の無い山と思っていただけに、その稜線からの眺めは、雪いっぱいで、オコタンペの結氷した白いかたち、貫禄の恵庭岳、冬の天を映す支笏湖、遥かな羊蹄山と、この登高が実現した喜びと相俟って、一層輝かしいものでした。  
 このあとMさんには札幌近郊の無意根岳・余市岳やニセコのニトヌプリなど山の雪が締まり始め、ラッセル不要を待ってましたとばかりに連れ歩いて貰い、十勝連峰の春スキーの拠点、白銀荘に幾度か泊まり込み近くの山スキーの様々なコースのガイドをして頂きました。これらは、職業案内人の人では全然期待し得ない、肌理細やかな優しい配慮にみちた、ゆったり・のんびりとした穏やかな山行を可能にして貰いました。

Mさんの事にもう一言加えるなら、Mさんの家系は祖父の代からご自身に至るまで、親の縁に恵まれない子達を自分の子として引き取り育てる心根を具えた人たちが続き、その心のつくりは次代にまで引き継がれています。このお話を一緒に過ごした何ヶ月かの山行の後に、白銀荘での夜、奥さんも同席の時(奥さんも山スキーをします)、この話を聞かされ、私には無縁の、「ひとの子を引きとり育てる(自分の子がありながら)」という膨大な事が求められる営みを決心したときの、ご両人のそなえの重さを思うと、どう言葉をかえしたものかわからなくなって、十分間ほど黙ってしまいました。  

スキーがこんな心暖まる出会いを作ってくれたのは、北海道の山の神様からの賜りものとして、あの世まで持って行くでしょう。


12.美しい北海道の山とスキーと私(その6) 北海道のゲレンデ
 北海道の山と山スキーの事を今まで述べてきて、北海道滞在中に一番楽しませて貰い、過ごした延べ日数でも最も多いゲレンデスキーに触れずにはおれません。  
本州の代表的なスキー場のある長野県や新潟県に較べて、北海道のスキー場は次のような素晴らしい特長が備わっています。   

@ 造りが大らかでコセコセしていない。
スキー場の立地が大自然の中に取り囲まれ、山また山の向こうに海が見えたり、湖が足下に拡がっていたり、ときには両方とも寄り添って呉れたりの景観に恵まれている。 そこに霧氷の縁取りなど懸れば、この世の極楽浄土のきわみ絵に埋没。 当然コース取りもユッタリとして、好きな時に、好きなだけ曲がり放題の滑降が楽しめる。   

A 空いているし、スキーヤーがガツガツ してなくて穏やか。
スキー・シーズンが長いので、いつでも滑れる余裕からか、コースでの危険運転をするバカが皆無。その必要もない大らかさが用意されている。

B 都市部からの交通が便利。 
遠くて2時間ちょっと、大程1時間そこそこ。これが東京からだと休日前は5〜8時間の覚悟が必要。首都圏在住者にはこの問題は、難行・苦行もので、これへの対処法として前夜出発・早朝仮眠(車の中・ホテル等の雑魚寝室で)、還りは午後一番に出発。 二日行程のスキーの場合では疲れに来たのやら、車に閉じ込められに来たのやらの目的転倒現象。

C リフト・ゴンドラが完備し、一発で運び上げ、登らせてくれる距離が長い。
反面事例としての上越地区の代表格・石打スキー場の例を挙げれば、ここは歴史もあり人も集まる所なのだが、コースのなかの土地所有者の権利が入組んでいて、スキー施設の建設に際しての妥協が図れず、リフトはズタズタの細切れの最たるもので、山麓から山頂まで乗り継ぎ乗り継ぎの繰り返し。時には次のリフトまで蟹の横這いか大股開きでフウフウ言わされる有様なのです。スキーが流行りだして半世紀、当時のままの不便を強いて平気な感覚や恐ろしい。ユーザー不在の『滑らしてやってるんだ、嫌なら来るな。』の姿勢たるや何をか言わん。客の好みも落着いて、生まれる遥か前の祖父母のころのレトロ趣味に浸りに来ている?

D 何と言っても雪質が違う『 ユ キ シ ツ 』が!!!  
雪質ばっかりは、其の場所の地理的条件によって決定付けられるもので、金を掛けたから実現できる性質のものではない。昔、千葉に首都圏のスキーヤーを当て込んだ"SAWS"なる人工スキー場が建造されたが、ここは真夏でも室温が零下数度を保っていた。これは日本の建築・冷凍空調技術の結晶で見事なものであったが、如何せん余りの高コストに耐えられず破綻した。ましてや二千メートルに及ぶ何本ものコースを擁すスキー場を全山、シーズン中『零下に保つ』など、北海道の山の神様のみに可能な技であり、他の地域にとっての決定的な歯軋り・垂涎の事項です。 悔しかったら『緯度』を6度ほど北へヨッコラショと移す以外に方法は無いわけですから。

・  ・  ・  ・

私の乏しい経験からくる独断ではあるが、スキーを楽しむ条件では、北海道はヒョッとすると世界一になるのではないかと思わせるフシがある。少なくともアジア・オセアニア地区では決定的な優位に立っています。豊富な降雪量と雪質と間近に在る大都市文化が決め手です。


13.美しい北海道の山とスキーと私(その7) ゲレンデスキー彼方此方
 最も北海道の値打ちを感得さして貰ったのは、第2話でもお話したルスツ・リゾート・スキー場でした。ここは私たち夫婦のような検定1級と2級の中間レベルのスキーヤーにとっては、完璧にスキー悦楽の条件を備えています。殊にMtイゾラのスティーム・ボートのコースはA・Bともに最高です。  
 関西に住む山友達夫妻にルスツへの賛辞をメールで送ったところ、翌年の春ここで一緒する事になり、その4日間毎日青空と輝く霧氷につつまれ、シー・ハイルの極みでした。関西人の満足度は150パーセントを越えていました。

孫達と延べで一番長く過ごしたスキー場はトマム・スキー場でした。ここには皆さんご存知の波の起きる立派過ぎる大プール施設があり、孫達3人とも大のお気に入り。何日浸かっていても飽きることなく、いざ帰ろうかとなると何時も大々的な愁嘆場が繰り広げられ、膨れっ面の洪水。 でもここの山の頂上からの少し痩せた尾根筋のコースを最下部までの一気滑降は、どんな時でも夫婦にとって興奮の残る想い出でした。

トマムの少し先のサホロ・リゾート・スキー場は規模もあるし、一番の魅力はオフ・ピステのスペースをタップリと設けてあるところで、全国的に見てもそのコース設計の考えが立派だと思います。

富良野は私たち夫婦が、北海道で初めてスキーをしたスキー場で、新富良野プリンスの窓からの十勝岳を主とした真っ白な連峰の眺めに、「これぞ北海道」と大感動した思いは一生消える事がないでしょう。(この窓からの感動を後の世代へと娘と息子の両家族を一昨年の越年初に招待して、皆でスキーをし捲くり蟹を食い捲くり、御陰でズッシリ応える大散財になりました。)
富良野スキー場の富良野ゾーンの長いコースは、北海道での二番目に好きな所になりました。いつ行っても期待を裏切ることがありません。

札幌国際キロロ・スキー場は三洋北海道のスキー部のお決まりでして、洋友会の西田さんや菅原さんと幾度も一緒しました。(西田さんは常に制限速度を60%以上オーバーの目くるめく速さで滑り、部の予定時間の半ばでササッと切り上げる鮮やか態度でした。菅原さんには車に乗せて貰った時に、絵の話をした御縁で絵画クラブに入り、今では今年の世話役をして貰うほど一番熱心な絵描きさんの一人。)  
 札幌に近い両スキー場は私たち夫婦だけや、娘や息子の家族が札幌に泊まった時には一番熱心に通ったスキー場になりました。

旭川に泊まった時には、カムイピップに孫達のお付き合いをしに行き滑ったのが、孫達のその時にしかなかった姿がいつまでも記憶に残っていくことでしょう。  旭日岳のスキーコースも幾度か滑りましたが、霧が出て降り口を探しながら滑った時に、樹林帯に入ってぼゎっと霞んだ景観のなかを、夫婦で滑った夢幻的な雰囲気が最も印象に残っています。家内はもう一度あの情景に身を置きたいと言っています。滑っている人は誰もいませんでした。

小樽の天狗山スキー場は以前に旅行で来たときに、ホテルの窓からナイターの照明がヤケに華やいで見え、いつか海を足下に眺めながらと考えたままズッと実現しないままでした。札幌滞在も残り僅かになって、遣り残しを片付ける感じで訪れました。ロープウエー直下は意外に急斜面で、私に先に滑らせておいて、家内はヤメて回り道し置いてけぼりにされましたのが、忌々しい。

札幌長期滞在の最後のスキー行はMtレースイになりました。春も終わりに近くコースに人も疎らで、これで滞在中最後のスキーになるナァと、愛惜の情に駆られ、もう一回、もう一回と無限に滑り続けたものでした。

   ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  

我々夫婦が北海道長期滞在を決心した理由の半分は、夫婦で思いっきり滑りたい、時には孫達も交えての想いからだったのです。 私にあと何年の寿命が残されているかは分かりませんが、生き残っていれば80歳まではスキーを続けたい願望をシッカリ持って生きて往きます。


14.私のホーム・ページ考(その1)  私のホームページは洋友北海道在ってのこと
私にとって、2年余の札幌滞在と洋友北海道への転入が無ければ一生自分のホームページを持つ事は無かったと思われます。  
 永年の憧れであった北海道に身を置き、存分に残る人生の一時期を満喫するには、SANYOという共通項があり、したがって素早く気心を通わせ合い易い場である洋友会に顔を出し、種々情報を与えて貰うに如かずと挨拶に伺いました。  
 私が趣味としている山や絵のクラブでもあれば、同好の集いを通して親しくなり、いろいろな北海道の土地勘を養ったりさせてもらいたいなどと思っていました。しかし山登りも絵を描くクラブも無かったのです。  
 お話を伺うと、パソコン・クラブが浜辺会長の情熱と技術の下に極めて活発でレヴェルの高い活動をしていることが分かりました。なかでもパソコンという媒体を通したクラブ活動の結晶である洋友会員の個人ホーム・ページの開設数が、支部会員数当たりで見ると全国の各支部中抜群の姿でした。更にはその下には、開設予備軍といえる会員が控え、出番を待つわけで、こうした人達が戦列に就いたときには、洋友北海道には大ホーム・ページ王国が生まれてくるイメージが見えました。  
 パソコンについては、私は娘にお古を押し付けられ、北海道に持っては来ていましたが、日常的には使っていない休眠状態だったので、機会があれば復帰できたらなァの気持ちでいました。  
 偶々わたしの余技のスケッチのファイル2冊を浜辺会長に見せたところ、ちょっと貸せとのことで、次回にはそれが全部3種のサイズでPCに取り込まれ、私を紹介する意味で、希望者にはCDが配布される反応の素早さでした。

私に自分のホーム・ページを作ってみたいかどうか、「その気があるなら」とホーム・ページ立上げの先生にと久保洋一さんが紹介されました。結果的に私に取っては、ここに久保さんが居たことは『天の配剤』の言葉そのもので有りました。ホーム・ページの「見せ物」としての決め手は機械的な技術は言うまでも無いことですが、やはり『編集能力』であると確信します。永年、会社でその世界に身を置いてきた専門家としての久保さんのセンスは抜群に洗練されていて、説得力に富んだものでした。
 その話を聞くと、たちまち私はホーム・ページについての『夢の世界に彷徨い』、ホーム・ページは自分にとって、『孫達への亦とない"遺す言葉"であり、"遺す生きざま"』になると確信しました。
 久保さんはビギナーにその気にさせて、夢の酩酊者に仕立て上げてしまう名演出家だったようです。70才を越えた爺をして、ホーム・ページという生涯の作品を前に、夜遅くまで熱く語らせるような魔法をかける魔術師でした。

こうして自分のホーム・ページに対するイメージが出来てくるに従って、すでに高齢者に属する自分にとってのホーム・ページのもたらす意味を否応なしに考えさせられるのでした。  
 今まで生きて来た時間より、これから生き残す時間の方が短いのは確実なのであり、ひょっとすると残りは瞬間でしか無い場合も有り得る。 即ち生理的と言うか死生観的と言おうか『明日をも知れぬ』境遇に、年齢のうえでは既に到着し切っているわけです。
こんな立場に立てば、誰でも考えるだろう事は『自分の一生は何だったのか』と生涯の『総括』を求める心境になるのは、人として当然なのでしょう。


15.私のホーム・ページ考(その2)   高齢者にとってのホーム・ページのもつ意義
前項で人生の『総括』と書いたが、その事に就いての私なりの考えを述べてみたいと思います。  
 誰でも人それぞれに、一生を生きてきた上で、重点的に掲げてきた対象が有ると思います。それは実社会に於ける地位や名誉であったり、人に抜きん出た財産の形成であったり、信念や信仰の完遂であったり、趣味・嗜好への埋没であったり、育児への情熱であったりと様々なものが有るはずです。  
 ホーム・ページの上で自分の生涯を総括するには、うえに掲げた種々分野に対し、これまでの一生に費やした情熱や努力の姿を開示し、その場面での燃焼の様子や軌跡を残すこと、そして其れを振り返り、百年の方に近い何十年という時間、又いろいろな地球世界の地域という空間の中での位置を見定め、自分で評価を行なうことが、その内容になると思います。

@ 仕事について ―あまりにも生々(なまなま)しい材料が多すぎ、迷わせる調理法― 
 仕事については職場から卒業して、まだ間が無く、職務に打ち込んだための体温上昇の火照りが未だ充分に残っている人も多いでしょうし、そのホトボリに乗って、自分独りでビールやシャンパンの掛けっこをするような高揚感を披瀝してしまっては、10年後20年後に気恥かしくなったり、独り良がりの陳腐感にガッカリさせられてはいけませんので、どれ程サラッと記述するかに工夫が要るのでしょうね。

A 趣味について ―没頭した趣味の成果の開陳―  
 仕事と異なり趣味の対象は気楽な遊びの世界に属するものばかりなので、楽しさを語っておけば、それで万事OK。  
 その人の生涯の中にあって、趣味の世界にどの広さまで、どの深さまで達したかは、その人の人生設計が那辺にあったかで大きく異なって来るでしょうが、一般的な俸給生活者にあっては仕事一辺倒、他は何も無しはあまりにも味気無い淋しい話ですし、一方、遊んでバッカリで度が過ぎて所属の組織の公金に手を付けるに到るのも考えものです。(悪い方の例ですが、私の身近にもゴルフと御婦人(複数)に極めて熱中してしまい、費やした額は億に達した人がいました。それを聞いた超偉い方は、報告に来た偉い人の顔に報告書を投げ付けた有名な話があります。身内に立派なお人がいて御尻を丁寧にお拭きになりましたが、40才台でここまで此道に埋没し堪能できれば、男子の本懐と言えるかも。)  
 欧米人社会では年金生活の日が来るのを千秋の想いで待ち焦がれ、そこに毎日が日曜日、100%の趣味三昧のパラダイス生活を夢見るのが、圧倒的多数の人達の人生態度だと聞かされ、昭和30〜40年頃の全社モーレツ社員集団時代には、何と頽廃的な風潮であることか、だから先進文明を持ちながら日本の後塵に塗れる国家沈降の憂き目を見るに到る、と胸を張ったものでした。  
 健やかな消費文化を享受する環境に身を置いた事のない戦中派世代は、残念ながらビッグな楽しみ方を学ぶ芽までも摘み取られ、酒を喰らっては喚き散らし、パチンコ・マージャンに身を屈め、競馬・競輪に興奮を求めたのも致し方無かったのでしょう。  
 でも戦後も60年を迎え、戦後世代が第一線を退き、年金生活族の仲間に入って来ようとする時に到って、『これぞ自分自身と言える創造的趣味・嗜好』を見出せないようでは、あまりに淋しい。  
ゴルフ好き→→ エイジ・シュート達成。 
登山屋さん→→ 百名山踏破   
お花好き →→ 今の家・屋敷を処分し原野を何千坪か入手、
           北海道の 男ターシャ・テューダと洒落のめそうではありませんか。   
絵を描く人→→ そこそこの場所で個展を催し親戚・知人を総動員           
             その気になれば生前葬を兼ねる        
海好きの人→→ クルーザーを買い、住み付き、世界無寄港一周記録75歳
鳥人間 →→→ 気球で偏西風に乗って、米国西海岸へ
車好き →→→ ユーラシア大陸ドライヴ旅行 砂漠で行方不明 葬式不要
ダイヴァー →→ 赤道上のスポットを西から毎年潜り、20年計画で踏破

B 自分の思考、主義・主張 ― 人生を経て、これだけは言い遺したい―  
 人間は十人十色で様々な物事の受け取り方、考え方、訴え方、我情があるはず。これが人間社会の面白さ、厄介さ、面倒臭さ、魅力、深みを醸し出して呉れているのでしょう。  
 自分にしか有り得ない経験の組み合わせ、自分にしか有り得ない何百世代を受け継いだ遺伝的形質に伴う能力と感性、それらの齎す自分特有の思考の形態。『これを子孫に遺さずに、遺すものが亦と有ろうか』と大上段に振り構えるのも、大袈裟で大人気無いとも取られるが、そこにこそ此の世に生きた自分固有のものが有ると、自ら感得できれば、書き遺すのが人の親としての務めではないか。それより更に意味を持つのは、孫達にモノ心が付き、諸々の認識が可能に成る時期まで、自分の方が健常な脳神経を保持出来るかの期待が難しいが故に、この大激動の世紀を生きた祖父母世代としての大きな務めではないでしょうか。これだけ壮大な実験場(戦中戦後の飢餓死状態からJapan as No.1 への変遷)に心と生き身を置いて生き抜いた人類世代は、歴史的にも皆無なのですから。

C 全般としての自己開示 ― この世でたった一人しか居ない自分が見た―    
 上記@〜Bの仕事、趣味、主張の外にも、自分自身で格別な感興を持って追想する事柄を、誰でも語り尽くせない程に自分の歴史の中に抱いている筈です。  
 まして其れが身内の事であったり、親しく交わった人の事であれば、それが記録され、皆に読まれる姿になっていると、其処に描かれた人は特有の想いでその時の場景を偲んで呉れるでしょう。  
 それが此の世に生きた証しでもあり、どんどん忘却の彼方に消え去っていく自分の経歴への備忘になるのです。  
 今から30年、40年たって100歳を越えるかどうかと言う時になって、自分の実体がもう何処に有るのか定かで無い、見当識を失った認知状態に際し、何かのハズミに、自分のホーム・ページの内容を家族から読み聞かされ、切れ切れボロボロの記憶の細い糸が突然につながり、正気を取り戻すことだって有り得るかも知れん。  
 ですから、書けるうちに何でも御書きになる事を謹んで御奨め致します。


16.私のホーム・ページ考(その3)   私にとってのホーム・ページがもたらした物
私のホーム・ページを立ち上げるに際し、久保さんから全体の構成の概要が提示されました。  
 ホーム・ページの表題は『  』とありました。  
私はこの文字のもたらす語感を次のように受け取りました。「 私のホーム・ページがこれから作られて行くだろう姿・内容を予告しているなぁ」と。  私の方からは久保さんに文字の説明を受けようとしませんでした。  なにか、それは示される前から決まっていたことのような暗黙の言辞に感じました。  
 従って私は表題の言葉の心を「『自由に時間を遣い、心の趣くままに遊ぶという最高の贅沢を得、人生の画布に『様々な彩りで自分を描き尽くせたらなぁ』の想いです。」と添えました。  これらの言葉の中に、この世で自由になる時間を、より美しい姿に変え、美しい時と場を求め続け、同じ志をめざす人と集い語らう、そして叶うことなら、そうした場景を、おだやかな色彩で描きたい、いつまでも描いたものを眺め続けたい、できればこの神の快楽を人にも伝えたいと言った気分を含んでいたと思います。

言葉と画像の組み合わせのもたらす愉快な気分、その場にこころを遊ばせる高揚感、頭の中になんとなく湧き出たイメージが目の前で随意にレイアウトされる快感、これは遣り出したら止められんなあの世界の連続に終始しました。

@ ホーム・ページは絵のページから始まった

ホーム・ページを作るのに、いちばん観て貰いたいものといえば、私にとっては『  』でした。3才の頃から70年近く、親しみ楽しみ時には忘我の域に没入し、ほんの一瞬ではあるが、人生の進路をきめる時期の数ヶ月、画家を職業にしてはとの想いにこころが動いた、捉えようによっては笑止に堪えない状態を経験しただけに、絵に対しては他の趣味とは遥かに異った思い入れがありました。  
 誰でもそうなのでしょうが、ひとに抜きん出た才能の片鱗を自分の中に感得し他からもそれが認められた場合には、若ければ若いほど未来への可能性を夢想し、ナルシズムの甘い酔い心地に浸り彷徨いたいものです。将来の生活に対する破滅の可能性の予感があろうとも、抗し難い魅惑をその幻影は包み込み、エクスタシーへの誘いかけを止めません。  

縁あって、日展系会派の超幹部の先生に教えを授かる機会を得、私の絵に向かう姿勢、作品の出来栄えをお認め戴き、先生みずから私の作品の個展開催の手筈を進めてくださり、実現をみたときは、アマチュアの私にとっては『個展』など「一生の夢のまた夢」であっただけに、開催の前後3ヶ月ほどは宙を歩む日々を明け暮れする状態を過ごしました。  
 大きなタブローでは及ばないが、ジャンルによっては自分より旨いよ。自信を持っていいのだよとの言葉を、真顔で先生に頂いたときには、雲の上からの啓示を受けた、こころ貧しい信者の想いがしました。 
  あぁ、そうなのか、楽しくて、面白くて、何枚も何枚も夢中で描き続けていたことが、そんな事になっていたのか。 いい眺めと感じると、手が勝手に動いて絵になっていたものなぁ。
 私は、素人の戯事を遠く越えたものとして感じていた『本職の絵の世界』というものの、極々端っこではあるが触れることが出来た気がしました。

展覧会の期日がきてのレセプションでの祝辞に、小型スケッチでも100号の内容を備えていると『北海道旧道庁舎』と『横浜港赤レンガ棟』を揚げ褒め上げて頂いたときの面映さは、少女になったうぶな顔をしたと想います。
 そして会期の一週間は、瞬く間に過ぎました。次々とお見えいただいたお客さんとの応対には、積もる話、絵の話、お買いくださる絵の見立てで気が付けば閉館時間の毎日で、閉館後は気の合ったグループの会合の予定が入っていました。

100パーセントのアマチュアである私の絵が、しかも出品した70点ほどの作品の7割が売れるなんて、この世の椿事と申す以外には無い事でした。
 会期が決定した頃、身内などから物要りだろうから、買わして貰うよとの話を頂き、どうしたものかと先生に相談したところ、『そうした話なら、是非買って頂きなさい。作品を売るという行為は、自分の価値をその世界で問い掛ける最も端的な勝負の形態なのだから、自分の作品の魅力を試すのに絶好の機会になるよ。』とのことで、売値を「号ン万円ほど」にして置きなさいと示唆いただきました。それは東京芸大の油絵卒業後15年ほどの第一戦中堅どころの相場に相当するものでした。  
 展示会場が三越百貨店の物なので、絵の売買は三越百貨店扱いとなります。それやこれやで、素人の遊び絵描きが一夜で玄人気取りの有頂天・楽しい混乱世界に舞い上がり果てたのでした。  
 私の人生での歓喜の有頂天は幾つかありますが、その動機の純真さの点では、志望校にストレート合格を知らされた時の、数倍の強烈さで『個展の成功』は私の魂を活気に躍動させ、心を喜びに震えさせました。

「しろうと」にとっては『 個展 』は魔物です。その齎す雰囲気は麻薬です。それが与えて呉れる快楽は、すべてに優先する衝動にこころを駆り立て、捕らえ尽くすのです。
 私にも「麻薬」の経験がありますが、「この世の中で、『快楽の感覚以外には何も無い世界、快楽感だけが有る世界』が有るとすれば、それが麻薬に浸っている時です。」
 人間はその味を知ってしまえば、それを再び味わうためには、何でもします。どんな事をしても悔いる事はありません。もう一度ソレを味わうためには。

ホーム・ページの中に『絵のページ』を設けることは、ささやかな形ではあるものの開催期限の無い、永久開示の擬似個展を設けることなのです。


17.私のホーム・ページ考(その4)   私にとってのホーム・ページがもたらした物(つづき)

A年中ベスト・シーズンの花園  ガーデニングのページ

55年続けた登山とスキーに比べると、実績が数年のガーデニングは桁違いの短さです。   
 しかし書き物が半分占める山紀行より、画像を眺めているだけの内容の『ガーデニング』の方が親しまれ易く、愛好者も多いと思い2番目に掲載しました。

花の美しさは「量」と「組み合わせ」の素晴らしさにあると思います。  

そのための要件 @ 出来るだけ大量に「苗」を得る。          
             A 手当たり次第に植えて咲かせてみる。

@の為には信頼の置ける業者から、良質の種を購入する。手間を惜しまず世話を見る。 育て方の話をすれば、花の中の優等生「パンジー」を例に取れば、暑さ嫌いのこの花の種を発芽させ、秋小口に開花させようとすれば、一番暑い7・8月に種蒔きをしないと間にあいません。しかし関西・関東地区でのこの時期の気温では、発芽適温より遥かに高過ぎます。  
 然らばと、日中はクーラーの吹出し口の下に苗床を置き、夜は朝まで扇風機の首振り微風モードで御過ごし頂く待遇が必要。 これほどのキメ細かな配慮によって発芽を見、2mm、4mmと成長する様子を見るにつけ、自分で子供を産めない寂しい運命付けられた男性にとっても「生命の芽生え」を実感し、4〜5cmに伸びた逞しい本葉を数枚伸ばし、蕾みを着けだした頃の姿に、日に日に育つ頃には、お腹を内側から蹴っている胎児の実感の50分の1程は共感しているのかも知れませんね。

最高の花の種類の組み合わせを得るためには、次のようにします。 美しい組み合わせ方に自信のある株は、最初から地植えでイメージを描き、未経験の物は鉢植えで咲かせた結果の色合い・花姿をみてお互いに調和し競合しあう美しさを確かめるのです。

こうして庭一杯に盛り上がるように咲いた花達は数ヶ月の夢の春を呼び寄せて呉れます。  
 個々の花一輪ずつの形の優美さ、見る者の息を止めさせる群れ咲く迫力、異種の花の組み合わさった美しさが醸し出す絶妙の構成美。  
 耽美・楽園・豊饒・極楽・浄土・天国・超完備・過剰美、様々な言葉が並び出てくる場景に、こうした種目を開発したデザイン担当の神様は何者だったのかの戸惑いの想いに考えは及び尽きます。

しかし哀しいことに、関東・関西の夏の気候は、多くの花達には酷過ぎるのです。 私が自分のシンボル・フラワーにしているディギタリス、絵に描くのが最も好きなデルフィニューム、色の多さと強さで勝負のルピナス等などの高丈花種は、本来「宿根草」でありながら、本州では夏の暑さが越えられず、枯れ絶えるため、毎年初夏に翌年用の種蒔きをしなければなりません。  
 それが北海道では悠々と夏を越し、年々株は大きく育ち、身の丈を越える大株の圧倒的な魅力を発揮するのですよ。 『夢のような話』では有りませんか。

園芸家にとっての北海道とは永遠の究極憧憬地なのですよ。花の開花期間も違います。暑気に当たり一日の花の命も、北海道では幾日も生き生きと咲き競います。

北海道と花の豊かさの話をしていれば際限がありません。人口1人当たりの公園の広さでは、恐らく札幌は、一日の行動範囲内でみると日本一だと思います。  
 そのうえ、そこでめぐり合える花の種類の豊かさでは、その10倍を超えるでしょう。 他の地区では、極めて在り来たりな公園用の花ばかりです。  
 札幌での百合が原公園や滝野すずらん公園やそれぞれの公園の花の育成管理者の、珍しい花の種類に対する拘りや情熱は只者でないものを感じます。それは絶品級です。

ホーム・ページに花のページを設けて居ますが、これは奈良盆地の酷暑の地での好い処取りの写真集です。
もし私の余生が後20年も有り、美瑛あたりで200坪以上も花園に使える土地に恵まれる幸運の神様が、私に寄り添って下さったら、私のガーデニングのページは、3〜5倍も内容の濃いものに成るでしょう。
そうなれば、足腰が立たなくなっていても、這ってでも花の株の植え付けをしているでしょうね。  
 そしてオテントウサマガ輝き温かい或る日、花達の間でこと切れて、お迎えを得たいものです。大雪の山々はまだ白く爽やかでしょう。 今西行ですね。


18.私のホーム・ページ考(その5)   私にとってのホーム・ページがもたらした物(また、つづき)

B そこに置いて来た幾つもの命  山のページ

「そこに置いて来た幾つもの命」というタイトルを書いてから気が付いたこと ですが、TV番組である記録をもつ登山家が言っていた事で、エヴェレスト登頂の最後のルート、ノースコルから頂上までの間には、過去に亡くなった登山者の亡き骸が累々と横たわったまま、吹き曝しになっていて、「ごめんなさい、跨ぎます」と謝って踏み越えるのだそうです。自分の足で歩いて登っても、千何百万円か要るのに、例えば10人掛で担ぎ降ろそうものなら、大変な額になる。従って手の着けようが無い。それが恐らく何十体(80体?)も永久冷凍の侭いらっしゃると言う凄まじい話がありました。 スゴイ話でしょ・・・(脱線終了です)

私が言いたかったのは、登った山それぞれに、魂の青春の名残りと言った物がまだ其処にあるはずだとの事だったのです。  
 山に入れば、肉体は常時、心肺機能と筋力を現年齢相応にセーヴして登りますが、魂の方は全く老け込まず、むしろ若さへの愛惜の故の反動か、瑞々しさを増幅すらしている実感があります。

山の事でも思いつのるものが一杯あって、書きたいですが今回が寄稿の最終回である事に気付き、山の話はここでは端折ることにして、山のページの随想欄に何時か書き続けます。

C これからどう展開するのか大問題  自分史のページ 

私にとって自分史のぺージは最終的には、一番意味の重いものになると思っています。他の絵、花、山は精一杯楽しんだ記録の纏めですが、こと自分史となると、生涯のさまざまな局面での『生きざま全部』が対象ですから、遊びごとでなく全人格が露出するかもしれません。  
 他愛ない、しかし子供なりには命に関わる事象の直ぐ傍にいたような事であったりの話でも始めましたが、このページは今後50編ほどは書きたいと考えています。まあ幾つかは心躍ることがらの記述もあるでしょうが、70歳を越してしまった今から考えずに居れないことは、『 死生観 』が最大のテーマに成って来るでしょうね。百歳まで生かされたら、30年も考え続けなければなりません。大変なテーマですね。重過ぎです。やめときますか?  
 日本人がこの列島に住みはじめてこの方、数十億人の人が生まれましたが、一人残らず必ず死にます。例外はゼロです。自分もそうです。そこで「どう死ぬか」が問題です。  
 30〜40年前まではまだ割合簡単に死なせて貰えました。今は大変です。寄ってたかって死なないように介護の限りを尽くし、生命維持に医療は励んでくれます。  
 私は尊厳死協会に入っていますが、安楽死は許されていません。私が今一番真剣に考えているのは、仮想ですが脳の衰えの問題です。痴呆が漸進的な発症で、完全な人格喪失が現れるのが予測できる段階で、どう自分を処理したものかと言うことです。  
 自裁についてはHow to 物が出ているそうですが、私はまだ読んでいません。  
問題は死ぬに死ねない状態。自分が何なのかの判断ができない状態に、突然陥った場合です。周りの人たちにとっても、「食べさせないで、死なせてやる」のは、たとえ遺書で希望されても許されないことで、厄介ですね。当人に判断力が伴えば、絶食を決意して衰弱死を招くこともできるでしょうが。  
 私は5年前に大腸癌で手術し、再発は免れています。今の年齢になれば、十年に近い、ときには十何年にも及ぶ判断力を失った病状が、何時まで続くか行く末知らずの「無期刑」状態に対比し、癌は数年以内に開放を約束された「有期刑」である故に70才を半ばを越えれば、癌の罹病は感謝の対象ですらあるとの確信を抱いています。部位が脳以外であれば、終末期まで意識は明晰であり得るのが有難い。  
 いったい、神さまの手にはどのような運命が用意されているのでしょうか。 

長々と半年間のお付き合い、お読み頂き 有難う御座いました。  
 いま有る生活、残されている能力を神の恩寵と心得て大切にし、まともに動く身体、まともに判断できる脳が失われずにいる今のうちに、今日現在をムダにせず、心が楽しいと実感できる対象にむかってアクションを起こしましょう。自分を活かせたと確信できる内容の伴った、出来れば後に残せるものに取り組もうではありませんか。

ひょとすると20〜30年も、まだ生かされるかも知れません。身と心がまともなのは、あと何年なのでしょうか。
 身が不自由になっても残った機能を働かせて楽しめる方策を工夫しておかねばなりません。 お健やかに。

(おまけ)
私は10年日記をつけていますが、前年の昨日の欄に下記のメールのコピーが貼ってありました。 当時のホーム・ページ制作の状況が手に取るようで愉快です。読んで下さい。

久保さん

昨日は 絵画関連のページが 全部アップ・ロード完了となって
格別な感慨に 見舞われました

大晦日が どんどん迫って どうして抜け出せばの 袋小路に落ち込んだ
自分の姿のイメージが 夏の頃には チラチラしていましたが
グァッシュ 油絵 山の絵 と進み 
ペン画で そこそこ骨組みを 自分で作れるのに
近付いた実感が持て ホッとしました
持ち込んだページが その日のうちに アップ・ロードとは
しょうじき 感激モノですね

負んぶに抱っこで よくもここまで お世話いただきました
何回言っても 呆けた表情で はじめて聞くような
顔で聞かれたのでは 普通なら堪りませんモノね

理解力は幼児並み 記憶力は恍惚寸前

なみなみならぬ優しさと忍耐力の強さに             
             ただただ感謝あるのみです
どうも有難うございました                  
                            辻川