1、原風景・・・こころの棘
 リタイヤしてから5年、この春65歳になった。
 頭はそれなりに薄くなり夜中にトイレに起きる回数が増えるなど、50代の頃と同じとは言えないが
フットワークや新しいものへの挑戦意欲は衰えていない。内面的な若さは結構、保てていると思っ
ている。
 ただ、トシかな?と思うことも少なくはない。中でも気になるのは「度忘れ」。話をしている時、固有
名詞などがすぐ出てこないで「アレ」だの「ソレ」だのと言う事が多くなった。これはまさしく老化現象
であり寂しい思いがよぎる。
 最近、巷では自分史を書くのが流行っているようだ。なかには本にして子供たちや友人に配った
りする。パソコン教室でも「自分史を書こう」というような講座を時々見かける。
 確かに自分がこの世に生きた証を写真や作品などと共に文章で残しておけたら「千の風になっ
て」大きな空を吹きわたることが出来るかもしれない。
 呆けないうちに何か書いておきたい。・・・しかし、なかなかきっかけが無い。
 そんな時、小池会長からホームページの「投稿欄〜春夏秋冬」へ声がかかった。浜辺相談役の
意向でもあるという。このコーナーは第一回の浜辺相談役、第二回の小池会長、第三回の辻川先
生と素晴らしいエッセイをそれぞれ半年以上に亘って掲載し、読み手に感動を与えた「洋友会ほっ
かいどう」の名物コーナーである。私も編集を担当しながら毎回わくわくしながら読ませていただい
た。
 そこに私が・・・ということである。とんでもない。1〜2回ならともかく20回近く、月に3回ペースで文
章を書くなど自信がない。一旦引き受けて途中からお休みしますと言うのも格好が悪い。そして何
より忙しくて書く暇がない。いろいろ理由をつけてはお断りをしたがなかなか聞き入れてくれない。
治まったかなと思って翌月会うとまた「あれ頼むよ」という。同じような言い訳をして別れても次回、会
ったらまた「あれ、楽しみにしてるよ」と言う。「まだ諦めていないの・・・」「そうだよ。頼むよ・・・」とプレ
ッシャーをかける。
 ふと現役時代の小池会長を思い出す。そうだこの人、この粘りと説得力で不毛の釧路にSSSを3
本部も作った人だった。こりゃー相手が悪い。逃げとおす事はできないな。
 観念して密かにテーマとなりそうな事柄を書き出して見た。最初に10項目、その後思いつくたび
に一つ、二つと追加してひと月で15項目ほどになった。しかしまだ足りない。月3回ペースで6ヶ月
書くとなると18項目だ。余裕を見て20項目は最低用意しなければならない。そして2ヶ月6回分の
原稿の目処がついたら小池会長に「わかりました。書かせていただきます」と言おう。
  タイトルはどうしよう。いろいろ考え、「はるばる遠くへきたもんだ」に決めた。
  石原裕次郎が亡くなる直前頃に唄った「わが人生に悔いなし」の一節だ。
      ♪鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
      ♪親にもらった体ひとつで はるばる遠くへ来たもんだ。(前節を#2と入替)
      ♪長かろうと 短かろうと わが人生に悔いはない・・・・
この詩が好きで、ひとりの時に良く歌う。
 私の出身は十勝の広尾町。農家の7人兄弟の長男である。当時長男は家の後を継ぐものと決ま
っていた。その掟を破って家を飛び出した。親父は将来設計をくるわされ、都会に出ても食ってい
ける筈がないと怒り狂った。母にも兄弟にも大変迷惑をかけたと思う。
 幸い経営は一番下の弟が継ぎ、立派にやってくれているので心配することは何もないがこの時の
親や兄弟に迷惑をかけてしまったという思いは「心の棘」となって決して忘れることが出来ない。
 幸い三洋電機という素晴らしい会社で43年も仕事をさせていただき、多くの仲間や友人にも恵ま
れ現在の自分がいる。
 あのまま、親の期待通りに農業を継いでいたら今頃どんな人生を送っていただろうか。長男はあ
とを継ぐのが当然という路線から外れて50年あまり・・・本当に遠くへ来てしまったものだ。そんな思
いでこのタイトルを決めた。
 これから半年あまり、先輩が書き継いできた素晴らしい「春夏秋冬」を汚さないように一生懸命頑
張りたいと思う。
2、原風景・・・母の涙
 私のふるさとは「広尾町」。広尾町といえば十勝港があり漁業の町のようだが農業、酪農業が盛
んで大きな牧場があちこちにある。実家は港ではなくヤマの方である。
 来年、開町140周年を迎える。ここには北海道開拓のため本州から多くの人たちが大志を抱い
て入植し、原野を切り拓いて生活の基盤をつくりあげて来た。
 久保家は昭和4年、香川県から祖父熊太が13歳の父を伴い開拓団の一人として入植した。
この地区には他に福島県からの入植者も多かったため香川県と福島県出身者の集落ということ
で私の子供の頃は「香福部落」と言われていた。
 原始林の中に居をかまえ、来る日も来る日も木を切り倒して自分の畑を開墾して行った。
 この頃の様子は広尾町出身の画家「坂本直行」著、「開墾の記」「続・開墾の記」を読むと良くわ
かるので機会があればお読みいただきたい。
 祖父の死、結婚、兵役を経験し親父は必死で畑を拓いて行った。私が小学校に上がる頃には
地域でも一目おかれる規模となり、農協の役員などもやっていた。
 私は男3人女4人、7人兄弟の長男。その頃、どこの家も子供の数が多かった。
 現在の様に機械化が進んでいる訳ではなく、子供も労働力として当てにされていて学校へ行く
前と帰ってからの時間は一定量の仕事が決まっていた。
 当時、農家の子供たちは中学校を卒業したあと高校へ進学する子供は稀だった。私も当然中
学校を出たらそのまま家を手伝うつもりで進学する同級生を羨ましく思っていた。
 3月のある日、先生から「高校受験の準備をしておくように・・・」と言われびっくり仰天。どうやら
親父が私に内緒で高校受験の段取りをしてくれていたらしい。それも農家の子供たちが進学して
いた農業高校ではなく普通高校であった。
 親父は周りの人たちに「息子を高校へやったら後を継がないのでないか」と言われたが「うちの
息子に限ってそんなことはない」と受け付けなかったそうだ。
 高校の3年間、毎朝6時半に家を出て4キロの砂利道を自転車で広尾線、豊似駅まで行き、そ
こからジーゼルに乗り換えて8時過ぎに広尾駅に着く。汽車通である。
 それでも学校へ行く前の1時間位は与えられた仕事を片付けた。お陰で授業中の眠たいこと・・・
クラス会で旧友に会うと「お前の居眠りは有名だったな」と言われたりする。自分なりに親父の期待
に応えようと全力で頑張っていたのだ。
 無事に卒業。大学進学、就職と希望に燃えて巣立っていく級友達を横目に「オレは久保農園に
就職だ」と胸を張る。実際、一年間は真っ黒になって農業を手伝った。
 親父譲りの負けず嫌い。「近所の農家に負けるもんか」と夏は4時起きで畑おこしや乳牛の世話
をやった。そんな私が親父の自慢だったらしい。
 当時はトラクターなど珍しく、殆どの農作業は農耕馬頼りである。仕事を休めるのは正月とお盆
とお祭りくらい。それでも若かったから頑張りが利いた。
 ・・・でも何か空しい。物足りない。広い畑を馬と一緒に黙々と歩く・・・これでは馬や牛と同じでは
ないか。頑張ったらこの先に何があるのか。俺のところへ来る嫁さんなんかいるのだろうか。
 考えれば考えるほど夢のない自分が惨めになった。親父ともよく衝突をした。
正月がきて決断した。「よし、俺はやめる」。
親父に相談したらぶん殴られるので、母親にだけ気持ちを打ち明けた。
 母親も随分反対し最後には「頼むから家にいてくれ」と泣いて懇願したが私の決意は固い。新聞
で社員募集をしていた三洋電機の販売会社に密かに願書を出し、帯広での入社試験に臨んだ。
この時、面接をしたのが旭川の嶋田順一さん(現・洋友会)だった事があとで分かった。
 幸か不幸か採用となる。勤務地は釧路。2月末の早朝、親父の目を盗んで家を出る。2メートル
近い雪の中を広尾線で帯広へ出て、ここで乗り換え釧路にたどり着いた。布団や汽車賃、僅かな
がら小遣いは母が工面し持たせてくれた。
 親父が帰ってきて私がいないことに気づく。後日、弟や妹の話を聞くと親父は怒り狂ったらしい。
気持ちはわかる。期待をかけて高校進学をさせた息子が自分を捨てて出て行ってしまったのだか
ら。世間からも物笑いとなりプライドが許さなかったと思う。
 親兄弟に大変な迷惑をかけてしまった事、とりわけ母親に償いきれない苦労をかけたことを思う
と今でも胸が痛むのである。
3、原風景・・・親父のこと
  結婚して子供が出来ると子供の成長に連れて自分の子供への接し方が親父に良く似ているこ
とに気がつき反省させられた。
  仕事中心、会社人間であった為、子供との対話はあまり無かった。話をするとつい説教調にな
ってしまう。たまにはゲンコツが飛ぶ。だから、私に直接相談したり教えを乞うことはだんだん少なく
なり、妻を通してコミュニケーションを図ることが多かった。
  頭の中ではホームドラマのような親子の関係をつくりたいと思ってはいてもそれを素直に実行
することが出来ず、つい仕事のせいにして過ごしてきた。
  実家は私が中学生の頃には経営の規模も大きくなり経済的な余裕も出来て住宅を新築するま
でになっていた。
  と言っても機械化は進んでおらず規模の拡大は即、子供たちへの労働量が増えると言うことに
なって私をはじめ子供たちは一生懸命手伝いをした。
  中学のときクラブ活動でバレーボールをやっていた。放課後、試合に備えて練習をしていると
親父が学校まで呼びに来て、みんなの前で叱られた。「忙しいのに何をやってるんだ!」。
  頑張ってレギュラーになっても試合のために手伝いを休むことは許されない。だんだん先生も
試合のメンバーから外すようになった。
  曲がったことが嫌いなガンコオヤジ。母は親父と子供たちの間に入って随分気を使い、苦労し
たことと思う。
  私が高校に通う頃は一番下の妹も小学校に入学し、7人兄弟全員が通学していた。母は毎朝
早く弁当箱をズラッと並べ、まるで仕出し屋のように弁当を作ってみんなに持たせてくれた。7人も
の子供を一人前に育てた昔の親はつくづく偉いと思う。
  親父は農協の組合長を三期12年務めた。一時期PTA会長もやっていた。
  子供や母には厳しく無茶な親父であったが、外では信用があり地域のリーダー的存在だったよ
うだ。いわゆる、外づらがよく内づらが悪い典型である。
  紆余曲折があって私が子供を連れて実家へ帰れるようになると孫をとても可愛がってくれた。
母に「今度はいつ来るんだ」といって楽しみにしていたとか。そうしなさいと教えた訳でもないのに
長男も「おじいちゃん、おじいちゃん」と言ってなついていた。家内も親父に気に入られていた。
ただひとり、私だけが、おっかない親父のイメージが払拭できず小さくなっていた。
  歳をとって親父も随分丸くなった。組合長など、人の指導的立場を経験し自分のやり方が世間
一般で通用しないことがわかったのだろう。
  親父は結構、多趣味であった。書道、囲碁、将棋、カラオケ、マージャン、釣りと幅広く楽しん
でいた。特に書道はかなりのレベルで文化祭に出品したり掛け軸を作って新築をした人などに贈
り喜ばれていた。
  我が家にも親父が新築祝いに書いてくれた掛け軸がある。
井植社長の著書から「従流志不変」と書いてある。私が三洋電機に勤めたことを知り「三洋の会社
を恨む」と言っていた親父も随分変わったものだと感激した。
  自宅を新築した時には母に「コレ送ってやれ」と言ってポンと30万円くれた。
  晩年の親父はだんだん耳が遠くなりボケも少しずつ進んでいた。5年以上も老老介護の状態に
なり母はひと時も親父のそばを離れることが出来ない状態だったが私には何もしてあげられなかっ
た。
  その親父も4年前の7月、母や子供たちに見守られ88歳で旅立った。
  母は親父のために精一杯尽くしたので思い残すことは無かったようだ。介護から開放され、好
きな野菜作りや小旅行など活動的になり、子供や孫、ひ孫と触れ合うことを楽しみにしている。
  平成19年7月母は88歳の米寿を元気で迎えた。
  子供たちは全員でお祝いをして、いつまでも長生きして欲しいと願った。
4、釧路時代・・・私を育ててくれた人々
  釧路で社会人一年生の生活が始まった。
  勤めた販売会社は旭川の出張所で栄町公園の向かいにあった。一階が事務所と倉庫、二階に
所長の住まいと12畳位の広い部屋があり私はそこに落着いた。住み込みである。
  女子社員一名、セールス一人、サービス一人、商品管理が私の5人体制だった。所長は輪界
出身で農協に顔が利きもっぱら外回り。時々奥様が電話応対の手伝いをしていた。
  電話のかけ方も知らなかった私は仕事を覚えようと必死だった。他の人がしている事を一つひと
つ観察しては自分のものにした。時々、大汗をかいて電話を切った後、奥様があそこはこんな風に
言ったほうが良いとアドバイスをしてくれた。
  新入社員研修など無かったのでいわゆるOJTで仕事を覚えていった。
新入社員のころ事務所の前にて   得意だったのは倉庫片付け。力だけは有り余っていたので重た
い商品を天井まで積み上げ、セールスから降ろすのが大変だとお叱
りを頂くこともあった。その頃毎日のように入荷したのが白黒テレビの
14−F25型。木枠に入って結構重かった。それを一人で倉庫にしま
うのだからみんな驚いていた。今では懐かしい思い出である。
 (写真は入社1ヶ月の頃テレビの前で)
  この時の所長と奥様は今でもお元気で真駒内におられ、たまに伺うと懐かしい話に花が咲く。
所長と奥様は社会人となって始めての師であった。
  その後、販売会社の再編があり道東三洋が発足。事務所も北大通の東映劇場の筋向いに移転
した。社員も大勢になり大会社に就職したようで嬉しくなった。
  そこの責任者がK常務。二十歳ちょっと過ぎ位だと思うのに大阪弁で調子がいい。威張り散らす。
定時に出勤しない。朝帰りをするなど生活態度がだらしない。ああ、大きな会社の責任者とはこんな
ことが許されるのか・・・とじっと耐えた。
  人生で数多くの人にご指導をいただいたが、後にも先にもK常務の仕事振りは反面教師として忘
れる事が出来ない。裏表のある人間、私の最も嫌いなタイプだった。
  その後、釧路市内、厚岸、霧多布、根室、別海、標茶などの営業担当になった。
  当時、郊外の道路はそろばんの砂利道だったが、そこをトヨエースに電気製品を満載して一泊
二日で営業活動をした。取引先に辿り着いたら土埃で髪の毛が真っ白になり、社長からよく笑われ
た。事故こそ起こさなかったが、よくスプリングを折って修理工場のお世話になった。
  その頃のお取引先、標茶町の正代社長、釧路市の加賀社長には公私共にお世話になり今でも
懇意にしていただいている。
社屋の前で浜辺専務と社員が記念撮影   売上の拡大とともに同業他社に比べて一番立派な社屋が浪
花町に建った。責任者は浜辺専務で社員もみな若く士気の高い
活気のある職場であった。
 (写真は道東三洋の新社屋の前で・・・前列左が浜辺専務、中列右が私)
  私は一時、帯広出張所に勤務したがそれ以外、転勤の経験
はない。しかし、釧路・帯広勤務時代に中井常務、藤田常務、
浜辺専務、西邨専務と歴代の素晴らしい上司に恵まれ、それぞれの上司から貴重なご指導をいただ
いた。
  中井常務からは商売の機微や儲ける執念を、藤田常務からは管理のイロハを、浜辺専務からは
商売の基本や販売店の財務指導、販売促進などを、西邨専務からは「得信在誠実」などを学び、転
勤とは違う環境下で自分を磨き高めることができた。
  浜辺専務は社屋3階に住まわれていたこともあり当直の朝、奥様が心づくしのオニギリを差し入れ
てくれた。あの味は今も忘れられない。
  中井常務は私たちの媒酌人でもある。
仕事以外に野球部の監督として、怒られたり褒められたり、楽しい思い出が一杯ある。
  現在も浜辺専務は洋友会でお世話になり、中井常務、藤田常務は道想会の幹事としてお付き合
いをいただいている。
5、釧路時代・・・朱に交わって赤くなる
  釧路には通算13年も住んだのでいろいろなことがあった。
  田舎から大都会に出て行ったので最初は喫茶店に入るのもオドオドして落着かない。
向かいに末広町のネオン街があっても眺めているだけで足を踏み入れるのが怖かった。そのうち
徐々に都会生活にも慣れ仕事も覚えて精神的なゆとりも生まれる。
  会社には野球チームがあり私も少しは経験があったので入れてもらった。三洋チームは市販と
月販、サービスに一部販売店の社員で編成され、結構強く他チームから試合を申し込まれることも
多かった。朝、5時半集合で6時から試合、一応9回までのルールだが出勤に間に合うように7時
半頃には終了となる。
  新聞社主催の朝野球とかメーカー対抗野球などの公式戦にも参加し、活躍すると新聞に名前
が載ったりするのでみんな頑張った。
  そのうち全道の販社対抗野球大会が行われるようになり社員旅行を兼ねてバスを仕立て、全社
員が札幌へ出るのが楽しみだった。中井常務の頃が一番盛んで勝つために練習もし、いろんな作
戦もたてて臨んだ。いろんなエピソードもあるが割愛する。
  朝野球で一番苦労したのは定刻に選手を集めることであった。みんな朝起きが弱く一人足りず
に相手チームから選手を借りて試合をしたり、試合が中止になりビールを持って謝りに行くこともあ
った。
  主要メンバーは月販で、伊藤保夫所長ほか3名位が大川町の月販会社の2階に住んでいた。
上手だからメンバーから外せないのに遅刻をしたり来ない人もいた。(名誉のため伊藤所長は除く)
  私はよく起こしに行った。下からいくら呼んでも返事が無い。
  あるとき頭にきてポケットに石ころを5〜6個入れて煙突のはしごを上って行き、煙突の穴から
大声で名前を呼んだ。それでも起きて来ない。たまりかねてポケットから石を取り出し、煙突の穴か
ら放り込んだ。石が降ってきたら起きない訳に行かない。
  すると突然近所から「火事?どこが火事だ!」とおじさんが飛び出してきた。早朝から大声でわ
めくものだから火事と間違ったらしい。平身低頭、お詫びしてグランドへ急いだ。
  帯広でも同じような経験がある。このときは釧路での苦い経験からどうしても自信の無い人には
足に紐を縛りつけて、窓から垂らして寝てもらった。
  実際に実行したのはOさん一人だけだったが・・・。
  釧路では中島町の独身寮「あかね荘」だった。ここに6〜7人住んでいたがみんな若く、楽しい
ことや失敗談が沢山ある。
  私はここで麻雀を覚えた。師匠は加賀尾さん(現、道想会)だった。休みとなれば朝から夜中ま
で隣の部屋でジャラジャラやっている。最初は「何がそんなに面白いのか」と大いに迷惑だったが
みんな先輩なので我慢した。後ろで見ているとだんだんルールが分かってきた。メンバーが足りな
いとき、私だけ千点10円にして入れてもらった。
  たちまち夢中になった。しかし好い手になると私の顔や態度でわかるらしく中々勝たしてはくれ
ない。かなり授業料を支払った。
  雀荘で遊ぶことも覚え、末広町の南風荘にはよく行った。同僚4人と徹夜マージャンをやり、そ
のまま寝ないで出勤と言うことも何度かあったように思う。
  麻雀で苦い思い出がある。
  大川町、月販会社の二階は一時、麻雀のたまり場になっていた。伊藤所長はきれい好きで自
分の部屋で絶対やらさなかったので、専らKさんやMさんの部屋でやった。
  その頃私は新婚で、妻に一人留守番をさせるのが忍びなく妻同伴でやった。妻はジャラジャラ
やっている部屋の片隅でじっと終わるのを待っていた。
  その日は同伴ではなかったが徹夜して帰り、2階で寝ていると妻が産気づいた。一階から何度
も私を呼んだが返事が無い。そのうち私も気がつき降りていくと妻が大変な状態だ。慌てて車に乗
せ、砂利道を近所の産科へ急行した。しかし日曜日でお休み。そうこうしているうちに流産をしてし
まった。
  後で妻の母からこっ酷く叱られ大いに反省をした。
  良い事も悪いことも先輩や同僚から教えていただき都会生活に染まって行った。
6、室蘭時代・・・妹の結婚秘話
  釧路、帯広勤務のあと札幌へ転勤した。
部署は北海道営業本部の販売企画部、上司は釧路でお世話になった浜辺部長である。
当時はオイルショックの真っ只中で慢性的な品不足、主な仕事は商品の確保と価格改定(値上げ)
の対応が中心であった。ここで約6ヶ月勤務、初めて本部の仕事を経験した。
  その後道南三洋へ転勤。室蘭市を中心に伊達から苫小牧、浦河方面までの日高線、300キロ
に及ぶ広域商圏を担当することになった。
  室蘭に住んで驚いたのは朝、車のボディが一面、灰色の粉塵まみれになってしまうこと。よく聞
くと新日鉄の工場から吐き出される鉄粉混じりの煤煙であった。
しかしその後、鉄鋼産業が徐々に不況となり煤煙も少なくなって車の汚れも気にならなくなっては
来たが一方で市場環境は厳しくなり業界の競争が一段と激しくなっていった。
  室蘭でも野球をやった。といっても取引先のチームで、三洋の選手は3〜4人である。その会社
の営業部長が野球大好きで自分が監督、息子三人がピッチャーと内野手でレギュラーだった。
室蘭はノンプロの新日鉄があり、野球熱の盛んなところ。我々のチームは結構強かったので新日鉄
球場でも何度か試合をした。
週に2〜3回早朝練習と試合があり、きつかったが監督が取引先の営業部長であり文句を言わずに
参加した。
  登別のお得意先F社長からよく山菜取りに誘われた。
朝、薄暗い4時頃からオロフレ峠やカルルス温泉の山に出かけ、蕗やタケノコを採る。その頃、携帯
電話は無かったのでラジオを大きくかけ迷子にならないようにした。
一時間位採るとかなりの量になる。それを車に積み8時には帰宅、朝食を食べて出勤した。
このとき蕗の漬け方を覚え、今でも我が家のノウハウとなっている。
  その頃、実家では7人兄弟の上6人が片付き一番下の妹だけが病院に勤めながら家の手伝いを
していた。農家では後継者に嫁さんがいない時代、妹も引く手数多であちこちから縁談が舞い込ん
でいた。
農協関係の人への話もあったようだが妹は出来れば地元以外の人と結婚したいと望んでいた。
  そんな話を妹から聞き一人の同僚の顔が浮かんだ。
サービスで所長の下にいた中村君だ。私の住んでいた地球岬の寮には独身者も5〜6人住んでい
てその中の一人。真面目で技術も優秀だがたまに部屋を覗くとグチャグチャ。これは嫁さんをもらわ
ないと可哀想だな、と思っていた。
  直接話をしても良かったが「俺の妹を嫁にもらってくれ」と言う訳にもいかず、所長の高橋義勝
さん(現・洋友会)に相談した。高橋さんは「そりゃ〜いい話だ」と大乗り気。
話はトントン拍子に進んで本人同士は「結婚してもいい」と言うことになった。
  ひとつ問題があった。親父の説得である。子供たちがみんな片付いて妹だけがそばにいる。
可愛いくて仕方がない、出来るなら近くに置いておきたい。三洋電機への拘りもある・・・・。
そんな親父をどう説得するかである。高橋さんは黒川専務(洋友会・黒川那津雄さん)に相談した。
  「親父を説得に行こう」と言うことになった。
まだ雪の残る3月の末、私が案内役で車を運転、黒川さん、高橋さんの3人で室蘭を早朝6時に
出発した。日高路〜黄金道路を300キロ走り10時半頃広尾町に到着、泥んこの車を洗ってよう
やく実家にたどり着いた。
  親父がいた。一番緊張していたのは私、二人を紹介して席を外していた。
黒川さんの人柄、高橋さんの説得力が親父に通じて渋々だが許してくれた。
  結婚式は輪西のホテルで盛大に行われた。披露宴のとき親父は上機嫌で酒を飲んでいた。
  妹の結婚式が終わって間もなく、もう一組のカップルが誕生した。中村君の同僚で同じサービス
に勤めている山口充司さん(現・洋友会)と私の従姉妹(いとこ)である。中村君と結婚した妹が同級
生でもある従姉妹を紹介し、めでたくまとまったのだ。
彼女は私が釧路に勤めはじめた頃、母への手紙を仲立ちしてくれた叔母さんの子供である。
こんな形でご恩返しが出来て嬉しかった。(手紙のことは別項で触れることにする)
  室蘭で9年間勤務し1981年(昭和56年)3月札幌へ転勤した。
定年を迎えるまで20年間、札幌に勤務し多くの上司や友人に恵まれ激変する家電流通を経験する
こととなる。
7、「愛猫みみ」のこと・・・・出会い
  リビングに一枚の絵が飾られている。題名は「愛猫みみ」・・・・
絵画クラブに入って間もない頃、辻川先生のご指導で描いた縦80センチ、横55センチの水彩画
(グァッシュ)である。はがきサイズの「小型淡彩スケッチ」を100枚位描いた頃、辻川先生の「一度は
大きな絵を描いてみた方が良い」という言葉に乗せられて百合の花の下に座っている「みみ」の写真
を見ながら描いたものだ。
  「みみ」を抱いて絵の前に連れて行き、絵の中の本人と見比べて見る。口の周りの黒い毛並み、
銀色の髭、首を傾け左目を細めてちょっと眩しそうにする仕草など、これが実に良く似ていて我なが
ら良く描けたものと嬉しくなる。そんな時、彼女に言ってやる。・・・・・「これは“みみ”の肖像画だよ。
私が初めて描いた作品〜愛猫みみ いつかお前も天国へ逝くときが来るのだろうけどこの絵はずっとここに飾って
おくからね」・・・・・と。

「みみ」が我が家に来てから23年余りになる。
9月ごろだったと思う。生後3ヶ月位の時に取引先の駐車場の車の下で泣いて
いたのを営業のI君が拾ってきたものだ。
彼は可哀想なので車に乗せ、一旦は自宅へ連れ帰ったものの家族の反対に
会い翌日会社に連れてきた。しかし、忙しい仕事の最中に猫の世話などしている暇は誰にもない。
みんな猫のことなどすっかり忘れて仕事に専念していた。
  午後になって私が外回りから帰り自分の机に座ろうと思ったら机の下に彼女がいた。何日も何も
食べていないと見えて逃げようとしない。動く元気も無い様子で泣きもせず、うずくまっている。
私は可愛そうになり「どうしたの?」と聞いてみる。「そうか、お腹が空いているのか。待ってろよ、今何
か買ってきてやるからな。」と言って近所のコンビニから鮭のおにぎりと牛乳を買ってきて皿に入れ、
目の前においてやった。
最初は警戒して臭いを嗅いでいたがすぐ牛乳をペロペロとなめ始め、おにぎりも少し食べたようだ。
  終業時間となり事務所のみんなに「この猫どうする?」と聞いてみる。女子社員をはじめ誰も関わろ
うとしない。困った。このまま誰もいない事務所に放置して死なれでもしたら面倒だ。かといってこんな
小さな猫を外に捨てるのも忍びない。
  あれこれ考えて取り敢えずダンボールに入れて我が家に連れて帰ることにした。
  予期した通り妻と息子と娘の反応は「どうするの!」「ウチでは飼わないよ!」とI君の家と同じで
冷たい。
  「あさって、帯広へ行くだろ。その時、乗せていって日勝峠で捨てるからそれまで家においてやっ
てくれ。大分弱っているようだから何か食べさせておいて・・・・」
  妻も娘達も同意してカツオブシや煮魚の残り、牛乳などを与えていた。
お陰で少しは元気になり「ニャー、ニャー」と、か細い声で泣くようになった。
  二日後、帯広日帰りのため朝早く車で我が家を出る。トランクには荷物と一緒にダンボールに入
れた子猫が大人しく乗っていた。
  日勝峠にさしかかる。さてどこに捨てようかと気にしながらハンドルを握る。川の近くなら水も飲め
るので少しは生き延びられるだろう。妻たちとの約束だからどこかで捨てなければ・・・そんなことを考
えながら走っていると頂上についてしまった。ここからは十勝、走りなれた道路を清水町に向かって
走ると、手頃な場所が見つかった。幸い後続車もいない。車を路肩に寄せ停車。妻や娘も降りてくる。
「さあここで捨てよう」とトランクを開ける。
  長時間、トランクに押し込められた子猫はダンボールの中でさらに小さくなり、覗き込む我々の方
を見てじっとしている。声も出さない。
「かわいそうだね」娘が言う。妻が「連れて帰ろうか」と私の顔を見る。「いいのか?」と私が言うと二人
とも「うん連れて帰ろう!」。・・・・・話はまとまった。
  そうと決まればトランクに閉じ込めておくのは可哀想だ。妻が抱いて助手席に乗り込む。
車内で猫の食べられそうなお菓子や牛乳を与える。
「名前はどうする?」私が言うとしばらく考えた後、娘が、女の子だから「みみ」はどうかという。
「みみ」なんて猫の名前の定番みたいで不満だったがせっかく娘が考えた名前なので「いいんでない
の」と言うと妻も「みみ」で良いという。
こんなやり取りをしながら清水町を抜ける頃、名前も決まり「みみ」は我が家の一員となった。
  後日談だが二日間、世話をしているうちに妻たちはだんだん元気になって時折ニャーニャーと泣
く子猫が可愛くなり情が移ってしまったようだ。私が連れて帰ったとき大反対した手前、なかなか家で
飼おうとは言い出せなかったらしい。
ふと、子供の頃学校からの帰りに捨て猫を拾って帰り物置に隠していたのを親に見つかり、叱られた
記憶を思い出す。あの時は親に逆らえず泣きべそをかいて元のところへ捨てに行った。
  しばらくは学校の行き帰り、猫を捨てた場所が気になって仕方が無かったものだ。
8、「愛猫みみ」のこと・・・・トイレ記念日
  猫一匹と言えども家族がひとり(一匹)増えるというのは大変だ。
寝床のこと、食事のこと、トイレのこと・・・何もわからないのでホームセンターへ行って適当に一揃い買
ってきた。なんと1万円以上の出費だ。
愛猫みみ 「みみ」はだんだん元気になり食欲も旺盛になってきた。しかしそれに
連れて家の中のあちこちでウンチやオシッコをするようになった。
椅子の陰や観葉植物の鉢などに遠慮なく排泄をしてくれる。これがまた
強烈なニオイを発するのだ。
家に入るとそれらしいニオイが気になって閉口した。
  取り敢えずトイレの躾をしなければと「猫の飼い方」という本を買ってきた。
二階の部屋のタンスの陰にトイレを置き、砂を入れてオシッコの匂いのついたティッシュを埋め「みみ」
の鼻を無理やりこすり付けてやる。
  何度か繰り返すうちにある日、家に帰ると妻が「みみがトイレでオシッコをしたよ!」と興奮気味に報
告する。行ってみると確かにオシッコの形跡がある。「成功だ!」よし、一度現場を見てやろうと言う事
になり妻と一緒に注意深く行動を見守る。
「今日はもうしないな・・・」と諦めかけた頃、落ち着かない動きを始め二階を伺い、階段をゆっくりと上り
始める。妻とそっと跡をつけ覗くと確かにトイレの前にいる。すっかり嬉しくなる。
しかし、みみは私たちが見ていることに気がついたのかトイレには入らず一階に引き返してしまった。
動物とはいえ、排泄をするところは他人に見られたくないらしい。私は諦めきれず妻を下に行かせて
今度は一人でトイレが死角になるところに隠れ、その時をジッと待った。
  一時間以上も待っているとトコトコと階段を上ってくる気配。この時を逃すものかとジッと息を潜めて
いるとどうやらトイレの中に入っていった様子。ザッ、ザッと砂をかいている。そ〜っと覗くと砂をかき分
けてつくった小さな窪みにお尻をくっつけ入り口から顔半分出して座っている。どうやらウンチらしい。
終わると今度は後ろ向きになり前足でザッ、ザッ、ザッと入念に砂をかけている。
そしてすまし顔でトイレから出てきた。
  妻を呼ぶ。「みみがウンチをしたぞ!」「ホント?!」と言いながら妻が駆け上がってくる。
私はみみを抱き上げ「みみは偉いね〜。トイレが出来るようになったの〜。エライ、エライ」と言いながら
抱きしめ頭を何度も撫ぜてやった。
妻も私から取り上げて同じように「メンコイね〜」と言いながら頭を撫ぜたりチューをしたりしている。
  これが「みみのトイレ記念日」・・・・
ともかく一番の悩みであったトイレの習慣は覚えてくれたようだ。こいつは結構賢い猫なのかな・・・と思
ったりした。
  参考書を見ながら食事のこと、ベッドのこと、爪とぎやオモチャのことなど「みみ」が快適な生活が出
来るような環境を次々と整えてやった。
かくして、4人と一匹の生活が始まった。しかしこの時は「みみ」との付き合いがこんなに長く、23年にも
なるとは思いもしなかった。
9、「愛猫みみ」のこと・・・おまえは幸せかい
  ヒトから見てネコとイヌの違いは「人間に服従するかしないか」だと言う。
  イヌは上手く躾ければ人間をリーダーとして尊敬し従順に振舞う。番犬や狩の手伝いをしてくれ、
荷物も運んでくれる。要するにイヌはヒトの役に立つのだ。
  一方ネコは集団行動をしない動物。人間になつきはしても服従することは無い。勿論、役にも立
たない。そこから「イヌは従順で聞き分けが良い」「ネコは気まぐれで自分勝手」というイメージが生ま
れたのだろう。
  「みみ」も典型的にネコである。私の布団に入ってきて一緒に寝ているかと思えばプイと出て行く。
私の布団が好きなのかと思って抱いて寝ようとするとサッと逃げていく。
  しかし、20年以上も一緒に暮らしているとその仕草で今、何をして欲しいのか、気分は良いのか、
体調はどうかなどが分かるようになる。
  一方、「みみ」の方も「今日はお父さん機嫌が悪いな」とか「イライラしているな」など以心伝心で察し
トコトコと姿を消す。勿論、言葉は話さないがある程度理解できるようだ。
  意思表示は大体、尻尾で行う。「みみ、おなか空いたの?」・・・尻尾を斜めに振ったら「うん」横に
振ったら「いいえ」である。斜めと横の振り方は微妙だが私にはわかる。
  テレビが好きだ。特に動物が出てくる番組などはテレビのすぐ前まで行って食い入るように見ている。
そんな時、「あまり近くで見てると目を悪くするよ」と言ってやる。
  可哀想だったが1歳のとき不妊手術をした。当時1万2千円位かかった。
  2歳ごろだったか、リードをつけたまま何処かへ行ってしまった。「みみ、みみ・・・・」と妻と一緒に
必死で付近を探し回ったが見つからない。そのうち帰ってくるだろうと思って家に入っていると近所の
奥さんから「裏の塀に首吊りしているのお宅の猫でないの」と知らせてきた。
  行ってみるとリードが塀に引っかかり首吊りをしている。塀の上に上り、飛び降りようとしたとき運悪く
リードが塀の隙間に挟まり上にも下にも行けず首吊り状態になったようだ。
もう暫らく気がつかなければ死んでいただろう。それ以来、絶対外へ出さないことにした。
  食事はキャットフードに決めた。たまに煮干とかカツオブシを食べさせる。私たちが食事をしていると
私のそばに来て「何を食べてるの?」と言うような顔をする。 小さく千切って鼻先にくっつけてやると
「こんなもの食べているのか」と言う顔をする。そんな時は「みみの口には合わないでしょ」と言ってやる。
  新築の家へ引越しをする時、よく言い聞かせた。「今度ね、新しいお家に行くんだよ。柱や家具など
を引っかいて傷をつけたら駄目だよ・・・」と。
古い家のときソファーの布をツメ研ぎ代わりにし、ボロボロにされた苦い経験がある。
  その代わり「マタタビ」の匂いをつけたツメ研ぎグッズを二つも置いた。いまだ、家には一箇所も傷を
つけられたことは無い。お利口な「みみ」である。
  日当たりの良い私のベッドの上で手足を思いっきり伸ばして眠っている。私が近寄っても狸(猫)寝入
り。そんな時、彼女のそばにそっと腰を掛け、撫でながら言ってやる。「気持ちがいいの?、お前はいい
ね〜、誰もいじめる奴はいないし、三食昼寝つきだしね〜」 「ウチに来て良かったね〜。生まれは悪い
けど育ちは良いんだから、これからも精一杯、長生きするんだよ・・・」と。
そして「みみは幸せかい」と聞いてみる。・・・・分かったのか分からないのか相変わらず狸寝入りである。
  家に来てから足の骨折で入院し7万円、眼の治療と健康診断で1万円、動物病院に合計8万円支払
った。「みみちゃん」名義の診察券はあるが健康保険が利かないので治療代が高い。
  平均的な猫の寿命は14歳位だと言う。ヒトの歳に直したら60歳くらいだ。「みみ」はもうすぐ24歳、
ヒトの歳に換算すると100歳ちかい。でも至って元気だ。
  長生きの秘訣は何か。私なりに考えてみると「雑種だからもともと体質が丈夫」「小さい子供がいない
し敵の攻撃を受ける心配も無い」「自分の思うとおり何でも聞いてくれる」「食べるものが栄養バランス
の良いキャットフードだけ」・・・つまり健康に一番良くないストレスが無いからだろうと考える。
  もう、いつお迎えが来てもおかしくない。
  ペット霊園の広告がやけに目に付くこの頃である。
10、麻雀の話あれこれ
  釧路で寮に入った当初、麻雀という遊びを知らなかった。
夜の遊びと言えばダンスへ行くことくらい。何人か連れ立ってダンスホールへ行った。その中に田沢
信行さん(現・洋友会)がいた。田沢さんがこの時いつも一緒に踊っていたのが今の奥様。今でもラブラ
ブで、週に何度も一緒にダンスに行くのが健康法だと言うから羨ましい限りである。
  ときどき加賀尾さんから声がかかった。土曜日の仕事が終わった後、加賀尾さんともう一人、車に麻
雀卓と牌を積んで帯広まで走るのだ。帯広のメンバーと麻雀をやるためである。当時私は帯広に彼女
(今の妻)がいた。それを分かっていて二人は私を誘うのだ。
  帯広のメンバーの自宅に二人を降ろすと私は彼女の家へ。そして翌朝5時頃迎えに行く。
徹夜で煤けた顔をしてまだやっている。朝食をご馳走になり一路釧路へ。
二人のいびきを聞きながら3時間かけて会社へ直行し、そのまま仕事。・・・・みんな若かった。
  室蘭でもたまにやった。
その時のメンバーは藤本朝陽さん、高橋義勝さん(二人とも現洋友会)ともう一人(社員)であった。
会社が終わって一旦家に帰り食事、着替えをして東室蘭駅裏の雀荘へ急いだ。その途中、不覚にも
タクシーに追突してしまった。客は乗っていなかったし運転手も「バンバーを直してくれたらいいよ」と
言うから住所と名前を告げてメンバーが待っている雀荘へ急行した。
そのまま明け方までやっていると黒川専務(現・洋友会)から雀荘に電話がかかってきた。雀荘を一軒
一軒探したらしい。「大変だ!警察が久保を捜しているぞ」何のことか分からず麻雀をやめて家に帰っ
てみると妻が真っ青な顔をしている。警察から「戻ったらすぐ本輪西交番へ来るように」とのこと。行って
みると私を「当て逃げ犯で探していた」と言う。タクシーとの接触事故の件だった。事情をよく説明し調書
にサインして帰った。
  翌日、本署の事故係のところへ行くと「あんた悪い奴にぶつかったね」という。相手は軽い事故でも
大げさにして示談金をとる常習犯だとマークされていた。路線バスに10人くらい乗っていた時バスが追
突された。9人は何でも無いのにコイツだけがムチ打ちになりバス会社から金をとった。
いずれにせよ本人とよく話して解決するようにとのこと。
  自宅に伺ってまずお詫びをする。すると「あんた事故になったら困るんだろ、人身事故だから免停に
なるし罰金も取られるよ」と暗に金を要求する。こっちが悪いからどうしようもない。
結局、面倒くさいから10万円払った。
事故は取り下げとなり、警察からは何のお咎めもなかった。
  藤本さんと高橋さんは黒川専務からこっ酷く叱られた。悪い事をしたと今も思っている。
札幌へ来てからも結構やった。何せ、会社の玄関を出たら角に雀荘「せき」があった。メンバーも豊富。
ある時、Uさん、Tさん、Sさんと卓を囲んでいると2〜3チャンやって場所を代わった東戦の一局、
Sさんが東、私が南、Uさんが西、Tさんが北である。私が牌を捨てると西のUさんもパイを捨てる。
その瞬間、北のTさんが「ロン」と言ってパイを倒した。「え〜っ!」みんな信じられずよく見ると確かに
あがっている。大役満「地和」だ。Uさんは動揺したものの、「ああ〜そう」と言ってプレーを続けた。
私なら卒倒していたかもしれない。この役は長い麻雀歴の中でも見たのは初めてだった。
  洋友会の麻雀クラブは藤本朝陽さん、大谷秀雄さん、私が幹事となって発足した。夏場はアウトドア
スポーツが中心なので11月から3月までの冬場に3〜4回の大会を行う。集まるのは大体16人(4卓)か
20人(5卓)。会員の中で普段、顔を見せない人も参加してくれて結構親睦が図れる。
小池会長もこの大会のために猛特訓をし、参加してくれている。
  一番苦労するのはメンバーを集めること。突然、前日に欠席の電話が入る。「風邪をひいて熱がある
ので出られない」とのこと。健康第一だから仕方が無い。ここにきてメンバーを探すのは難しい。
友人にピンチヒッターを頼んだり、雀荘のママに代打ちしてもらう。中には大会をすっかり忘れて電話を
かけたらまだ家にいたりする。「4人揃わなけりゃ出来ない事わかっているのに・・・」と悲しくなる。
毎回こんなことがあるので私は精神的に戦闘モードにならず上位入賞をしたことはない。
誰か幹事を代わってくれないかな〜。
  平成19年12月11日、病気療養中であった上田晴夫さん(洋友会)が逝ってしまった。
麻雀大好き人間で現役時代にはよく麻雀をやった。
彼は私より5歳年上だが元気そのもの。出張先から「7時ごろ着きます」と電話が入る。「メンバーを用意
して待ってろ!」という意味である。疲れも見せず12時過ぎまで卓を囲み翌日普通どおり出勤する。
彼の自宅には麻雀部屋がありよく誘われた。
奥様も嫌な顔をせずお茶を入れたり食事を作ってもてなしてくれる。
休みの土曜日は雀荘で昼ごろから日曜日の朝まで17〜8時間ぶっ通しでやったこともあった。
・・・・とにかくタフな男だった。
  退職したら時間があるので思う存分麻雀が出来るな、と楽しみにしていたら体調をこわして入退院を
繰り返すようになってしまった。麻雀どころではない。
  ベッドの脇でよく麻雀の話をした。「○○とやったときこんな事があったよな」とか、良い手をアガった
ときの事をリアルに覚えていて「リーチを掛けたらクボちゃんが一発で振り込んでくれた。役満だったよ
な!」と、楽しそうに話をする。「早く良くなってまたやろうよ!」「そうだな・・・」いつもそんな話をして病院
を後にした。亡くなる一週間前にもお見舞いし麻雀の話をしたのだが・・・・・。
  葬儀にはかって麻雀を楽しんだ仲間も大勢参列した。
私は棺の中に麻雀パイを一個入れ、「うーさん有難う」とお別れをした。(合掌)
11、鯖の話あれこれ
  私は鯖が大好きだ。鯖寿司には目が無いが、しめ鯖でも焼いても鯖なら何でも良い。
それが兄弟や友人に結構知られていて、例えば「あいつが来るのなら鯖寿司を用意しておこう」と言
うようになった。お客様を迎えるとき「あの人、何が好きかな」と考えて悩むことがあるが私に限っていえ
ばそんな心配は無用なので喜ばれる。
  なぜ私が鯖好きになったのか。
釧路勤務のときに北大通り社屋のならびに寿司屋があり、そこの鯖が1カン10円だった。
いわゆる10円寿司である。何せ安い給料だったから30個食べても300円、そして美味しくて早い。
魅力的だった。同僚と毎日のように食べに行った。
  当時、釧路は鯖がすごく獲れていた。寿町から浪花町へ曲がるカーブには毎朝、鯖が落ちていた。
荷台に鯖を満載したトラックがそのカーブを曲がるとき振り落とすのだ。付近の道路は鯖だらけ。拾って
いく人も沢山いたが大部分は後続の車に踏み潰され道路が“鯖のすり身”状態になる。
車がスリップして危険だった。そんなに獲れていたので10円寿司でも儲かったのだろう。
寿司屋の親父が呆れるくらい鯖ばかり食べた。
  藤井さん(故人・藤井宏一さん)が函館の所長のとき「函館に美味しい鯖寿司を食べさせる処がある
から今度行こう」と誘われていた。函館まで鯖を食べに行くのは遠いし出張などで行く機会も無かったの
で現役時代はついに味わえなかった。洋友会で顔を合わすと時々函館の鯖寿司の話になった。
残念ながら故人となり、藤井さんと美味しい鯖寿司を食べに行くことは永遠にできない。
  千歳の駅前に「浜寿司」というきれいな寿司屋があった。あるとき千歳出張所の人4人と私でそこへ
寿司を食べに行った。例によって私は鯖を注文。すると他の人もみんな鯖が好きで全員鯖ばかり食べ
た。そのうち店の鯖を全部食べてしまった。寿司屋の親父も変な客ばかりで呆れていた。
  仕事で小樽へ行ったとき所長のKさんが寿司をご馳走してくれるという。
私も有名な小樽の寿司を一度食べてみたいと思っていたので即、鯖を注文。最初は遠慮していたが
美味しいのでブレーキが利かない。30個位たべた。
支払いのとき見ていたら所長の顔が引きつっている。申し訳ないことをしたと後悔した。
  洋友会の新年会で洞爺湖へ行った。
伊達、洞爺方面に詳しい片寄さん(洋友会)が美味しい鯖を食べさせてくれる店があるという。ホテル
に着くや否や一緒にその店へ直行。やはり美味しい。刺身、ニギリと鯖づくしで腹いっぱい。その後の
宴会がつまらなかった。この時は小樽の失敗があるので事前にワリカンと言うことにしていた。
片寄さんにはご迷惑をかけなかったと思う。
  東札幌にいたとき向かいに喫茶店がありメニューに日替わりランチがあった。おかずだけ選べる。
コーヒーつきで700円。私は毎日鯖の焼き魚を注文した。そのうち注文しなくても鯖を焼いて待ってくれ
るようになった。
  同じ東札幌でランチ寿司を600円で食べさせる高砂寿司があった。
結構いいネタで人気があり、そこにもよく行った。あるとき遅い昼食で無性に鯖が食べたくなりランチの
時間外であったがそこへはいった。
例によって鯖を注文し、大将と話しながら上機嫌で20個くらい食べた。
  帰りに「お勘定!」といったら5,500円だと言う。顔には出さなかったが「ご馳走さん!」と言って
支払った。考えてみたら「お好み」なので高くて当然。昼食に5千円は痛かった。
その店には二度と行かないようにした。
とにかく鯖の話題には事欠かない。
釧路の10円寿司以来、私はいったい通算でどの位の鯖を食べたのだろうか。
12、趣味・・・土と遊ぶ
  実家は酪農業なのでいつも緑と土の香りのする環境で育った。
都会生活に慣れて来るほど、土の香りが恋しくて家の周りの小さな土地やプランターに野菜や花を植え
て楽しんだ。家を持つときは庭付きの一戸建てにしたいと考えていたが札幌へ来てそれが実現した。
といっても限られたスペース、野菜を作るような広さはない。
  近所の人たちは望月寒川の河川敷に家庭菜園を作っていた。ここは市の管理している土地だが自
分の家の正面だけでも20〜30坪程ある。いろいろな野菜が採れていた。
  我家も仲間入り。と言っても平日は殆どできないので妻がやっていた。大変なのは畑起し。丁度ゴ
ールデンウィークの頃なので私が担当した。耕運機など無くすべてスコップでの作業になる。肥料代、
種代、農薬など費用も結構掛かるので収支だけを考えたら買った方が断然安い。しかし、採れたての
トマトやキュウリをサラダにして食べたり畑でトマトをもいで食べる醍醐味はお金に換算できない。
何より土に接していると落着く。
  他に市民農園を借りている。車で10分程走った所にあり一区画15坪で年間1万円掛かる。
菜園用にリースアップになった軽四トラックを安く分けてもらい重宝している。
ここには馬鈴薯やとうきび、大根、花豆など大型の野菜を植えている。
畑で顔を合わせる人達とも親しくなり野菜作りのコツなども情報交換できて楽しい。
三年ほど前から空いていた私の畑の隣に宇佐美さん(現・洋友会)も借りた。
彼はスイカ作りに凝っていて今年は大きなスイカを17個も採ったそうだ。プロ級である。
  現役時代、販売網構築を担当していたとき、広島市にあるSチェーンO社長と知合った。
当時、釧路営業所の小池所長(現洋友会会長)と担当の宇佐美さん(洋友会)がT社系の電気店に
SSSの提案を熱心に進めていた。その中で電気店から是非、他地区の実例を見学してみたいという
要望があり広島営業所のお世話でSチェーンの視察が実現した。
O社長はT社系列を離れて三洋電機のSSSを展開するに至った経緯を成功例も交えて楽しく話して
くれた。結果的にこの視察が決め手となり釧路に他社系からSSSが誕生する。
私はO社長に心から感謝をした。忙しいご自分の仕事をやりくりして他地区の販売網作りのお手伝い
をしてくれるなど普通では考えられないことだ。広島に足を向けて寝られないと思った。
  帰ってから、お礼状とともに我が家で収穫した「じゃがいも」と「とうもろこし」を送ってあげた。
家庭菜園で私が育てた野菜を送ってあげたことにとても感激しそれ以来お付合いが続いている。
毎年夏には私が「じゃがいも」と「とうもろこし」を送ると年末には美味しい「みかん」を届けてくれる。
この「感謝の定期便」は今年で10年続いている。
  私は漬物が大好き。大根でタクアン、ベッタラ漬けなど5種類、150本位漬ける。他に実家の畑を
借りて栽培している蕗も5樽程漬ける。登別の山菜採りの時にF社長から教えていただいた方法で漬け
ると次のシーズンまで食べられる。
半分位は子供たちや知合いにあげるのだがコレがまた美味しいと大好評。
春は暇を見つけて山菜取りにも出かける。
  今年の春、自分の庭に少し手を加え、他人に見られても恥ずかしくない程度の花壇を作った。
ミニガーデニングは折々の花が楽しめて癒される。
私は広く浅く趣味が多い。音楽を聴く、ドライブ、ウォーキング、水彩画、麻雀など。パソコンは金も掛か
るので趣味と言うより「道楽」の分野に入る。
読書も好きだったが最近はあまり読まなくなった。
巷で話題になっている本を買ってきて読む事が多い。時代に後れないために。
  釧路にいたとき青地さん(故人)と言う電気屋の社長に「渡辺淳一」の本を薦められた。大ファンだと
言って熱っぽく作品の事を話してくれた。北海道出身、札幌医大卒業、母校の整形外科講師を務める
かたわら小説を執筆、直木賞作家。
男と女の本質に迫る恋愛小説が多く電気屋のオヤジらしくない青地さんを見直した。
  私も早速読んでみた。「遠き落日」「無影燈」「花埋み」「阿寒に果つ」「北都物語」「白き旅立ち」
「雪舞」「野わけ」など次々と読んだ。
昨年は話題作「愛の流刑地」も上下巻一気に読んだ。こんな愛の形があるのか・・・書きだしの「越中お
わらの風の盆」の踊り手と女の手の動きの対比が流石と思った。
家内の姉に「あんたらしくない本を読んでるわね」と言われた。
  石原慎太郎の本も多い。
「老いてこそ人生」「弟」「アメリカ信仰を捨てよ」「宣戦布告・NOと言える日本経済」など小さな本棚
に4〜5冊置かれている。
「どんなドラマでも最後の幕が一番実があり感動的なものだ。老いを迎え討ち、人生の成熟の時代を
さらに成熟させて、人生という劇場の決して短くはない最後の幕をたっぷり味わっていくためには、
人生の経験を重ねてきた人間としての意識を構えて老いをしっかり見つめて味わうことだと思う」
・・・「老いてこそ人生」のあとがきに書かれているこのフレーズが気に入っている。
自分もそんな生き方をしたいと考えた。
  最近は本を読み出すとすぐ眠くなる。やはり歳には勝てないのだろうか。
13、ボランティア・・・Let’s 歩こう会
  一病息災、私は糖尿病と30年くらい付合っている。
東札幌に勤務していたとき会社の健康診断がありイエローカード。すぐ病院へ行って再検査を受け
るようにとの指示が出た。
美園に恵仁会佐々木内科病院があり風邪を引いて何度か診てもらった事がある。そこへ行ってみ
た。幸いなことに佐々木病院は札幌でも有名な糖尿病の専門医であった。
検査の結果「こんなに長い間、治療もしないで放っておいたら将来、合併症で大変なことになるよ」
先生から聞かされ無知な自分を反省する。
以来、札幌へ来てから20年、佐々木病院のお世話になってきた。
  ある時、先生から声がかかった。「今度うちの病院で“歩こう会”を作るのだけれど、あなたに“世
話役”になって欲しい」お話を聞くと世話役は5名位、患者さんの中で糖尿病のコントロールが上手
く行っている人、比較的若い人にお願いしている、とのこと。内容をお聞きしたらそれ程、面倒では
ない。既に決まっているメンバーをお聞きしたら「校長先生退職者、学校の先生退職者(女性)、
OL経験者、主婦、それに私」であった。私を指名した理由は後から分かったのだが三洋電機に勤
めている(当時は現役)からいう単純なこと。
  第一回の打合せで、会の名称を「Let’s歩こう会」とし、活動方針を決める。糖尿病の運動療法
の啓発を目的に、「毎年、春と秋の2回実施する」「スタート時に病院から資金援助をしていただく以
外は自主財源で運営する」「会長など役員はおかず夫々得意分野を担当する」・・・リーダーは当然、
校長先生。会計は先生(女性)。私に何が出来るか聞かれたので「パソコンで案内状を作るくらいな
ら」と言った。「それ頼む」と言うことになり決定。
これが後々大変な仕事量になることをその時は予想出来なかった。
告知用のポスターはプリンターのポスター機能で作成。参加者に配布するメンバーズカード、カード
に貼るシールも作った。のぼりや横幕は布地にアイロンプリントするソフトで作った。
どれもPC倶楽部で勉強した事が役立ち佐々木院長先生や皆さんから喜ばれた。
  かくして毎回80名〜120名位の参加者で会を重ね昨年の秋(’06年秋)10周年を迎えた。
その間、一回だけ雨で中止となった。早朝、参加者に中止となることを電話連絡。スムーズに運んだ
が問題は預かった会費一人300円をどのようにしてお返しするか、である。
一ヶ月か二ヶ月に必ず一回来院されるのでその時で良いのではないか、と言うのが多数意見であっ
たが私は「少額だけれどここは誠意を汲み取って戴く為に葉書を出すべき」と提案した。内容は「中
止となり残念」「預かった会費はお返しするので来院のときこの葉書を提示して下さい」「次回も是非
参加をして下さい」いう事に。すると「葉書の宛名書きが大変」「経費がかかる」と反対意見も出る。宛
名書きは「私がパソコンでやります」「経費は病院から預かっている資金を使いましょう」結局、葉書
を出すことに決定。
このやりとりで私はつい「お客様」と言う言葉を何回か口にした。病院では「患者さん」と呼ぶのが通
例。私の仕事柄、業界用語が出て先生も苦笑し、皆さんも笑った。
私はその日のうちに葉書を仕上げ、リーダーの校長先生の了解を得て投函した。
一ヵ月後、私が定期健診で病院へ行くと事務長以下事務の女子職員から「あの葉書、とても評判が
良かった。患者さんから感謝された」と告げられ嬉しかった。
病院でも「患者さん」と言う「お客様」がいなければ経営して行けない。
私が打合せのとき間違って「お客様」と言ってしまった事の意味をわかってもらった。
  ’06年秋、第10回の「Let’s歩こう会」が盛大に行われた。コースは月寒公園を2周する6キロの
コース。スタート前のセレモニーは月寒公民館の大ホールで行った。
佐々木院長先生の「ウォーキング講話」「10回皆勤者の表彰」「過去9回のビデオ上映」などがあり、
出発前には「さっぽろ健康スポーツ財団の指導員」によるエアロビクスをして体をほぐした。
「コレで十分だ。疲れたからもう歩けない」と言う人もいた。
天候にも恵まれ成功のうちに10周年記念の「歩こう会」が終了した。
  すべて手弁当のボランティア。持ち出しもある。しかし、信頼できる主治医が身近にいて何かと相
談にのってくれる。胆石の早期発見もしていただき、良い病院を紹介してくれた。
ボランティアで「他人の為に奉仕」ではあるが結構自分の健康管理に役立っている。
第10回記念Let’s歩こう会
第10回のLet’s歩こう会に参加の皆様
14、ふるさと広尾・・・ヨサコイソーラン祭りと札幌広尾会
  ふるさと広尾を離れて半世紀になろうとしている。
その間、故郷との関わりはあまり密ではなかった。やはり家を離れた時の経緯が心の片隅にあって
遠のかせていた。
  10年前、広尾町在住の同級生が勝手連を作り、やはり同級生で当時助役をしていた大野進さん
を町長選に担ぎ出し見事当選を果たした。マスコミも「同級生のチームワークの勝利」と大きく取り上
げた。
その後の人事で助役や教育長にも同級生が就任し、ふるさとで活躍する同級生に拍手を送った。
私も札幌にいて何かお手伝いをする事はないかと考え、札幌広尾会に加入。町の観光の目玉事業
である「サンタメール」を自ら送り、友人たちにも協力を依頼した。
  そんな時、後輩の「T恵さん」から電話が入った。彼女は私の同級生「T・I氏」の奥様である。用件
は、「十勝港ソー乱舞」と言うヨサコイソーランチームを作っている。6月に札幌の本祭りに出るのだが
ビデオを撮ってくれる人が見つからない。プロに頼むと一本4千円で20万円くらい掛かる。久保さん
は三洋電機だからビデオ撮りが出来ると思って電話をした。何とか引き受けて欲しい。
事情は分かったが三洋電機に勤務していても得手、不得手がある。ビデオカメラの操作くらいはやっ
たことがあるがそんな動きのある映像は撮ったことがなかった。
しかし後輩から頼まれたら「イヤ」といえない。取敢えず引き受けた
  ところが、私はビデオカメラを持っていない。レンタルで借りて、ぶっつけ本番で失敗したら大変だ。
結局、大金15万円をはたいて一式を買った。本番まであと10日余り、暇を見ては運動会などに出か
けて撮影の練習をした。広尾町まで行って十勝港ソー乱舞の練習風景も撮ってみた。
試行錯誤を経て「何とかなるな」と思った。
編集はどうする。イエローページで業者を探した。何軒か当たって個人でやっている「ビデオアート札
幌」と言う業者に巡り合った。事情を話し編集とダビングをお願いし20本以上なら一本1,500円で
折合いを付ける。これなら諸経費を入れても一本2,000円で出来る。準備万端、本番を待った。
  本番の日、公式記録員の腕章をつけメインステージ、パレード、市内各区の会場など二日間で6ヶ
所、12回の演舞を撮る。どのアングルでとれば踊り手の表情や踊り全体を画面に収められるかなど考
えながら撮った。
演舞が終り撮影した60分テープ2本を「ビデオアート」に持ち込んだ。
一週間ほどで出来ると言う。
約束の日「ビデオアート」へ行くと2階のスタジオに通された。「久保さん、折角撮った映像だけど余り
良くないよ」・・・どんなことかと再生をしながら説明を聞いた。「カメラの上下ブレ、ズームの多用、逆光
撮影、マイクに風切音が入って聞きづらい」などを指摘された。撮るのに夢中、そんなこと考えていな
かった。
社長は撮影テクニックを親切に教えてくれた。なるほど・・克明にメモを取りその後の撮影に活かした。
  その後、毎年ビデオ撮りを引き受け、6回を数えた。チームのメンバーとも親しくなり誰がどの位置
でどんな踊りをするかなども頭に入れて撮影する余裕も出来た。
失敗もあった。大通のメインステージ。特別席を買って一脚にカメラをセット、テスト撮影も済ませて
余裕で演舞を待った。広いステージに「十勝港ソー乱舞」が舞う。8分間の演舞終了。
ところが後で再生してみたら肝心のメインステージの映像がない。
頭が真っ白になった。肝心の本番で撮影スタートボタンを押してなかったのだ。
  十勝港ソー乱舞に関わるようになって「ふるさと広尾」へ行く機会も増えた。行った時は同級生10
人ほどが集まりミニクラス会になる。そんな形で自然に「ふるさと広尾」との交流が深まっていった。
また、ビデオ撮りを通じてカメラワークや編集テクニックのレベルが上がり趣味の幅も広がった。
ヨサコイのお陰である。
  昨年3月札幌広尾会が20周年を迎えた。記念式典をやることになり目玉となるイベントを検討した。
芸能人を呼ぼうとか講演をしてもらおうとか様々な提案があったが予算がない。結局「手づくりで何かや
ろう」と言うことになった。
私は「会員の中には50年前に札幌に移り住み、今の広尾町の町並みや港がどうなっているか知らな
い人が多い。昔の懐かしい風景と今の風景を対比して町長に説明をして貰ったらどうか」と提案した。
「それは良い」と満場一致。しかし誰がやる。会長から「久保さんをメインに4人ほどでプロジェクトを作り
やって欲しい」と言うことになった。
言い出しっぺは損をする。
勝算はあった。町長に頼んだら何とかなる。早速、町長に手紙を書いた。ほどなく「一度広尾へ来ない
か」と連絡がありメンバー3人と広尾へ走った。そこで商工観光課長以下担当者を紹介され、用意して
くれていた写真を見せてもらった。「さよなら広尾線」という45分の記録ビデオもあった。
コレだけ素材があれば十分!
スチル写真はCDに焼いて送ってもらい、ビデオテープは借りてきた。
コレをPowerPointで30分に編集、ホテルのプロジェクターでテストした。
会長のゴーサインも貰った。
本番では大野町長自らマイクを握り、映像を使って「広尾町のむかし・いま」を楽しく聞かせてくれた。
「あそこに俺の家があった」とか「あの劇場へよく映画を見に行った」など歓声があがる。
大いに盛り上がり大成功。
勿論会場の様子はしっかりとビデオに収めDVDに編集して関係者に配布した。
会長や事務局長から「有難う、大成功、ご苦労さん」と労われた。
ヨサコイでビデオ撮りのノウハウを覚え、PC倶楽部がベースになって難しい編集テクニックもマスター
した。呆ける暇など今のところない。
15、自己啓発・・・アヒルの水かき
  三洋電機で42年間仕事をさせていただいた。
サラリーマンに転勤はつきもの。定期異動で新しい環境や上司の下、自分の能力向上を図り会社
が期待する資質や能力を備えていく。
幸か不幸か私は転勤の回数が他の人に比べて少なかった。つまり一拠点での勤務期間が平均、
長かった。釧路、帯広で13年、室蘭で9年、札幌で20年である。
その間会社では社員研修が計画的に行われ、職務を遂行する上での知識を与えてくれた。
SFI研修(財務相談員研修)、管理者研修、販促マネージャー研修などの他、新商品の発売のつ
ど実施される商品勉強会などがタイムリーに行われた。
社員に莫大な教育訓練費を投資してくれることに感謝しつつ真面目に受講した。
  札幌へ勤務するようになってから販売網構築を担当した。エリア別に販売網を拡大していく中で
多くの他社系の経営者と接する機会が増えた。業界の先輩経営者に三洋電機の経営提案をして
いく。「今後の業界のトレンドはこうなっています。」だから「三洋電機のシステムを採用したらこのよう
な経営が実現できます。」と熱心に提案、説得をした。
この経験は系列店中心の仕事をしてきた私に多くの刺激を与えてくれた。仕事を推進していく上で
三洋電機ばかりでなく家電業界全体、さらには流通業界で通用する能力が求められている事に気
がついた。
  丁度、会社で通信教育の推奨が行われていた。資料を読むと対象となるのは「中小企業診断
士」か「販売士」である。両方とも公的資格。前者はかなり高度で難関、そこで「販売士」に決めた。
1級、2級、3級とあり3級は商業高校程度、よしどうせやるなら「最初から1級に挑戦しよう」と決意し
密かに勉強を始めた。
科目は「商品計画」「在庫管理」「仕入計画と管理」「経営とマーケティング」「経営計算」「市場調査
と立地分析」「組織と人事管理」「販売計画と管理」「情報化」の9科目。
分厚いテキストが送られてきた。
勉強して課題を提出する。添削されて戻ってくる。・・・これの繰返し。
日常の仕事は精一杯やる。アフターファイブの付合い(麻雀など)も止める訳に行かない。なかなか
勉強の時間が取れない。居眠りが出るのでコーヒーや眠眠打破(ドリンク)を飲みながら続ける。
時には早朝5時起きでやる。結果、一年間かけて何とか通信教育を終了することが出来た。
ここまで来たら公的資格を取ろう。受験は翌年の3月だ。3ヶ月程余裕があるので問題集を中心に
猛勉強、その日に備えた。
  受験の日、受験者は20名位と意外に少なかった。
試験は無事終了。とにかくやるだけはやった。後は結果待ち・・・・。
その日、商工会議所ビルの正面に各クラスの合格者が掲示された。私はどうせ駄目だろうと気楽に
覗いてみた。
・・・・なんと合格者5名の中に自分の名前があったのだ。合格だ!
妻に電話する。体を壊さないかと心配していた妻が「おめでとう」と言ってくれた。
サービスやクレジットを担当していると公的な資格を取らなければ出来ない仕事がある。営業の仕
事は、社内では成績優秀、部長、課長の肩書きがあっても社会に出ると「私、三洋電機で営業をや
っていました」だけである。しかし三洋電機の求めている仕事のレベルは流通業界で立派に通用す
る。それが「一級販売士」と言う資格で裏づけされた。その後の仕事の自信に大きくプラスとなった。
  釧路勤務時代、SFI(財務相談員)研修があり経営分析、経営提案がテーマであった為、商業
簿記の知識が必要となった。普通高校であったが3年の時、商業簿記を選択し日商簿記3級は受
かっていた。よし2級に挑戦だ。「誰か一緒にやる人はいないかな」と何人かに声を掛けたら業務、
経理をやっていたS君がやるという。簿記は初めてなので3級を目指すとの事。早速、二人で本屋
へ行き参考書を買ってきた。試験日は同じだ。
合格を目指してお互いに猛勉強、どっちが落ちても格好が悪い。
  結果は「S君3級、私は2級に見事合格」
その後S君は経理のエキスパートとして釧路、札幌で活躍することになる。
  自己啓発は「アヒルの水かき」と同じだと思う。
誰でも仕事の質や成果を上げるために、見えないところでアヒルが水かきをしているように自己を高
める努力をしている。周りの人には悠然と泳いでいるアヒルしか見えない。
「原風景」でも書いたが高校卒業後は実家の農業を継ぐことにしていたので大学進学は考えなかっ
た。高校へ進学させてくれた事で親に充分感謝していたし、それ以上のことは許される環境になか
った。
  三洋電機では会社の経費で大学以上の知識や能力を身に付けてくれた。しかも上司や先輩が
都度実践で指導をしてくれる。
自分を少しでも高めたいと言う「自己啓発」の意欲があれば学歴なんてあまり問題ではないと思って
いる。
16、定年後・・・洋友会に加入
  定年を翌年に控えた頃、二泊三日で「LC50」研修が行われ参加した。
定年後の世界、まして「老後のこと」など考えたことが無かった私にとってこの研修会ほど考えさせら
れ、実になった研修会は無かった。
健康管理のこと、趣味や退職後の生活設計や生き甲斐の見つけ方などいくつかのテーマがあった
が私に一番関心があったのは経済的なことであった。
「退職して食っていけるのだろうか。」「働かなければやっていけないのではないか。」心をよぎって
いた不安がこの研修会の後、拭い去られた。結論は「贅沢さえしなければやっていける」ということ。
研修会から帰った私が上機嫌だったと妻が話していた。
余談だがこの時書いた感想文がこの年、全国の受講生の中で最優秀賞に選ばれ賞金をいただい
た。
  退職と同時に洋友会に入った。
浜辺会長ほか気心の知れた人ばかり。事務所も隣のビルで週に1〜2回顔を合わせるのが本当に
楽しい。洋友会のある日を中心に一週間のスケジュールをたてる。といっても家庭菜園と麻雀仲間
との付合い、冠婚葬祭くらいで現役時代の動きに比べたら2割にもならない。旅行といってもそんな
に行けるものではない。だいいち金が続かない。ゴルフは出来ない。働こうかと思っても自分の希望
に合ったような就職先も見当たらない。
よく聞く「熟年離婚」とか「ヌレ落ち葉」というのはこれか・・・と納得したものだ。そのうちクラブ活動の
幹事からいろいろ誘われた。まずパークゴルフ。当時は藤井宏一さんがお元気で毎月定例会があ
るというので参加した。
現役時代、SBCのレクリエーションで1〜2度プレーした経験があったので洋友会のパークゴルフ
に参加してすぐ夢中になった。奥さんたちも一緒、誰に気を使うことも無い。ルールやマナーを守
っていればスコアが悪くても罰金を取られることも無い。
青空の下、芝生のグリーンを踏みしめてかく汗は本当に爽快だ。
すぐホームセンターへ行って道具を買った。
  PC倶楽部は浜辺会長から勧められた。ホームページを作るという。当時、ホームページを個人
で開設している人は少なかった。私も販促でWordやExelそれにPowerPointを少しマスターして
いたがホームページには関心が無く第一すごく難しそう。逃げ腰だった私に浜辺会長はご自分の
使っていたノートパソコンを貸してくれ、懇切丁寧に教えてくれた。作成ソフトはHOTALだった。
まず、テンプレートから自分でも出来そうなテーマを選んだ。
それが私の現在のホームページの基礎となった「我が家の猫通信」である。
文章の入力はWordであった。デザインは販促時代に良く作ったチラシ作りのノウハウが役に立っ
た。壁紙にイラストやボタンを挿入、写真を加工して挿入するとそれらしいものが出来た。BGMも入
れた。出来たデータを保存しIEで見ると結構いける。
トップページからボタンをクリックすると新しいページにジャンプしBGMが鳴り始める。これは面白
い。たちまち虜になった。
家にはデスクトップがあったのでその日勉強したことを復習して見る。わからなければ浜辺会長のご
自宅へ電話をして教えてもらう。
時には夜中まで1時間以上も長電話、ご迷惑な話であったろうと今反省している。
そんな事を繰り返しながら段々とレベルが上がっていった。
いまPC倶楽部でホームページ作りのお手伝いをしているが電話でサポートするということが如何に
難しいか感じている。かなり深い知識が無ければ電話で教えるのは難しい。
かくして私はパソコンにどんどん嵌って行くのである。
17、定年後・・・町内会との関わり
  洋友会の仲間との交流は雑談の中での情報交換やクラブ活動を通じて私にとって精神的な支
えとなった。OBの中には「会社をやめてからも元の会社の仲間と付き合うのは嫌だ。だから洋友会
には入らない」と言う人もいる。それは各々の考え方、価値観なので否定はしない。
しかし、現役時代の上司、部下の関係やセクションの枠を取り払って同じ釜の飯を食った人達と付
き合うのは心地よい。だいいち数値目標やノルマがない、クラブ活動や行事を除けば基本的に時
間は自由、都合の悪い日、体調の優れない日は気兼ねなく休める。
会費さえ払えば月々の経済的な負担は無い。など、こんな自由なグループはない。
ただ、現役時代に家電業界という限られた中で生きてきた為、井の中の蛙になっていたきらいがあ
る。私も視野を広げ幅広い人と知合おうと考え、カルチャースクールや他の業界でのアルバイトなど
考えていた
そんな時、私が借りている家庭菜園の隣の区画の人と知り合いになった。よく話してみると同じ町内
の人。住所を言うと私の家を知っているという。
現役時代でも年に2回、日曜日に行われる公園清掃だけは万難を排して参加するようにしていた。
同じコミュニティに住んでいる者として当然の義務と考えていたから。
それ以外はすべて妻任せであった。役員が誰でどんな活動をしているかなんて関心が無かった。
  畑で町内の人と会った2週間くらい後、妻も顔見知りで副会長と言う人が我が家を訪ねてきた。
町内会の役員を引き受けて欲しいという。退職して比較的時間が自由になる身だと分かって来てい
るので断る理由が無い。何をやったら良いのですか?と聞くと会計副部長か環境衛生副部長、出
来れば会計副部長をやって欲しいとのこと。結局引き受ける。
お金を扱う部署はみんな敬遠して、なり手が無かったようだ。
町内会に関わって3年目。当時の会計部長が現在は町内会長、私は会計部長をやっている。会長
は一部上場の建設会社の所長を経験しただけあって組織運営など話が分かる。
我が北郷北部町内会は隣の広域町内会からの分家で会員数が200軒足らずである。サラリーマン
世帯が多く、活動への参加は芳しくない。役員も私より若い人が5人位で年寄りばかり。やっている
ことが保守的で従来からの事業をそのまま継続している。
会長の奥様には水彩画や書道の趣味があり、会長もパソコンが達者。そんな経緯から洋友会のホ
ームページや私のホームページを見て頂くようになった。
パソコンが出来てフットワークの軽いことが他の役員の知るところとなり最近では色んな事に関わら
ざるを得なくなった。他の町内会との交流、冠婚葬祭、防火管理者として消防署や北白石まちづく
りセンターとの関わりなど活動の幅も広がった。
これも「脱・井の中の蛙」の一環として時間の許す限り受け入れている。
  一昨年の1月からは町内会のホームページを立ち上げた。町内会単独でホームページを作り情
報発信をしているところは珍しいようだ。
トップページには月替わりで町内会に関係のある写真を入れるようにした。
春から秋には町内でガーデニングを楽しんでいる人を訪問し花の写真を撮らせていただき掲載す
る。冬は「元気な子供」をテーマに地域の“雪フェスタ”や“雪投げを手伝う子供”の写真を入れる。
「ウチの庭の花がインターネットで見れるから見て!」とか「うちの子供がホームページに載っている
から見て!」と遠くの親戚に知らせたと言う話も聞いた。
町内の人たちと取材を通じて“ふれあう”のも結構楽しいものだ。
ホームページの“いのち”は「新鮮情報の提供」である。町内会の行事や会合、お知らせ等は少なく
ても翌日には更新しておく。地道な活動が功を奏して最近ではアクセスしてくれる人が徐々に増え
てきた。
北白石まちづくりセンターの皆さんも関心を持ってくれている。コミュニティ活動を研究している関西
の大学から問い合わせが入るなど結構注目を集めていて町内会長も鼻が高いようだ。
これらの事も洋友会のPC倶楽部が間接的に社会貢献している証であり、誇りに思う。
18、母の米寿祝い・・・元気な母
  平成19年7月6日、母が88歳の米寿を迎えた。
不覚にも「兄さん、今年母さんが米寿なんだけどお祝いを考えてるの」とすぐ下の妹の電話で気が
ついた。言い訳ではないが母は今でも至って元気で毎日、野菜作りに精出している。
実家は今、弟と嫁さん、それに母の3人家族。だから自分のところで食べるだけなら僅かな量でいい
のに遠くにいる我々子供達や孫にまで届けるのが楽しみで家の周りの畑とハウス2棟に何種類もの
野菜を作っている。草取りから支柱たて、毎日の水やりまで朝早くから動き回る。
電話で話しても耳は遠くないし記憶力も衰えていない。
年一回、孫がドラムをやっているロックバンド「ザ・イナズマ戦隊」のライブを札幌まで聴きに来る。
特別席とはいえあの大音響の中、目を輝かせて2時間あまりの演奏を聴いた後「ああ、良かった。
元気をもらった」と言って帰っていく。
だからすっかり88歳という歳を忘れていた。
  早速、兄弟たちに相談し日程を7月14日、一泊二日に決定。東京、千葉、奈良の本州勢と道内
在住の兄弟全員が出席して十勝川温泉で実施することにする。勿論、母には直前まで内緒でサプ
ライズを狙うことを申し合わせる。
母の米寿祝い〜十勝川温泉〜 企画はお手のもの。翌15日は早めにチェックアウトし、実家へ
移動、4年前に亡くなった父の法要を行うことにする。ホテル
との折衝、記念品の選定、余興など企画書を作って皆に送って
準備完了。その後、記念品は妹の発案で「杖」にしようと言うこと
になり私が、丸井、三越、瑞宝舎、介護用品専門店、大丸と札幌
中を見て周り結局一番品揃えが豊富で接客も良かった大丸百貨
店で購入した。アルミ製で折りたたみ式、冬も滑り止めを取付けると使える。母はまだ普段、杖を使っていないからこれなら軽いので普段はバッグの中にしまっておき
必要なとき取り出して使うことが出来る。
私は密かにある企画を考えていた。それは一部始終を得意のビデオに収め、一時間のDVDに編集し
てみんなにプレゼントすることだ。
  台風も通り過ぎた7月14日、ホテル観月苑に兄弟7人(一部は夫婦で)、帯広在住の孫とひ孫の
総勢14人が集まった。
定刻の6時、全員が着席し母が入場、ホテルで用意してくれた米寿祝いの衣装を着てメイン席に座る。
まず記念撮影。全体写真、母とのツーショット、家族ごとにと賑やかだ。
ほどなく弟(次男)の司会進行でお祝いの会がスタートする。
長男である私から「母さんがこのように元気で88歳の米寿を迎え、私たち子供も全員元気で一緒にお
祝いが出来ることを幸せに思う。これからも体を大切にして何時までも長生きをして欲しい」とお祝いを
述べる。
花束贈呈とお祝いのお手紙はひ孫の二人、記念品贈呈は四女、祝電披露は三女、そして乾杯は長
女とそれぞれ分担し和やかにセレモニーが終了した。
食事が始まって間もなく母からお礼の言葉。「今日は遠いところから兄弟揃って米寿のお祝いに来てく
れて有難う。本当に嬉しい。これからも健康に注意し、寝たきりになったりしてみんなのお世話にならな
いよう元気でいたい」
短いがはっきりした口調での挨拶に全員感動の大拍手。本当にしっかりしている。
昔の思い出話をするものは誰もいない。苦労して7人の子供を育て、働くだけが生きがいの母への感
謝を話しはじめたら“涙なみだ”で会が湿っぽくなってしまう。母も喜ばないだろう。
カラオケで賑やかに盛り上がり母も楽しそう。2時間あまりの宴が終わって温泉に浸かって疲れを癒す。
翌日はそのまま実家に移動し、父の4回目の法要を行う。
お盆のお参りをみんなが揃うこの機会に前倒しでやろうと提案したのは家業を継いでいる一番下の弟
だ。
昼食は母の作ったトマトやナス、キュウリを皿いっぱいに盛り付けて焼肉パーティ。
母の米寿祝い、父の法要を一緒にやって本当に良かった。
19、母からの手紙・・・・あれから50年
札幌に戻って翌朝から部屋にこもりパソコンの前に座ってビデオの編集を開始した。どのシーンも
捨てがたい。エフェクトを入れ、タイトルを付け、テロップ、BGMも挿入して67分のDVDが完成
した。特に工夫したのはシーンの随所にオーバーレイ効果(picture in picture)で母の表情や会場
の様子を入れたこと。
そこまでやったらケースもセルDVDと同じようなデザインにしてやろうとPC倶楽部で勉強したテク
ニックを駆使してビデオショップに置いても恥ずかしくないようなDVDに仕上げた。
まる三日間、寝る間を惜しんでやったお陰で満足の出来映えである。
編集をしながら冬の朝、母や兄弟を残して広尾線に乗った日のことを思い出す。若さとはいえ無茶
をしてみんなに本当に迷惑をかけた。
「楽しい米寿祝いが出来て本当に良かった。このDVDは記念としてプレゼントする」積年の感謝の
気持ちを込めたメッセージを添えて4日目の朝、全員に郵送した。
早速、みんなからお礼の電話や手紙が届く。
実家の弟からは「早速、母さんと一緒に見た。出席できなかった礼子(嫁)も大喜びだ。素晴らしい
出来映え、記念になる」
函館の妹からは「感動した。兄貴がこんな技術を持っているなんてビックリ」
すぐ下の妹(広尾町)からは「皆で見た。大好評!これお金いらないの?」などなど・・・
兄貴の面目躍如。苦労して作った甲斐があった。
私が家を出た経緯は以前に書いたが、釧路に無事、落ち着いた事を母に知らせようと思っても
現在のように各家庭に電話はついていなかった。手紙を出しても親父の目に留まれば破り捨て
られる危険性がある。
一計を案じて近所に住んでいる叔母さんあてに手紙を書き、母あての手紙を同封することにした。
住所、会社の電話番号、近況などを詳しく書いておいた。
ほどなく母からの手紙が届いた。
体に気をつけること。都会の人は好い人ばかりではないのでよく相手を見て付き合うように。他人を
騙したり嘘をついたりして絶対迷惑をかけないように。などが鉛筆で書かれていた。家のこと、親父
のことは殆ど書かれていなかった。
こんな手紙のやり取りがしばらく続いたがそのうち郵便配達する人が事情を理解し親父がいないと
きは母に直接手紙を渡してくれるようになったとか。今では笑い話である。
私は釧路で結婚したがその時も実家でひと悶着あった。親父は絶対出席しないという。母と兄弟、
親戚の人達がいくら説得してもガンとして首をタテに振らない。母は組合長をしていた親父の
世間体もあるので必死で説得したらしい。結局、出席が決まったのは結婚式の前日。発起人をし
てくれた皆さんに大変ご迷惑をかけた。
当時、釧路の責任者であった中井秀一様ご夫妻(現在は茅ヶ崎市在住)が媒酌人、都田雄一さん
(現・洋友会)が発起人、司会は長尾さんと江川さん、札幌から浅川企画部長や道東地区を担当
していた安達均さん(洋友会副会長)他、販売店様など沢山の方が披露宴に出席してくれた。
披露宴の間、親父は終始不機嫌そうに黙っていた。
結婚式を機に親父の態度もだんだんと軟化していったようだ。私が真面目に仕事をし、沢山の友人
が出来ていることを見て内心は嬉しかったらしい。これは後日、母から聞いた。
平成20年1月5日、正月早々甥の結婚式が帯広であり妻と出席した。
甥は東京に住んでいて「ザ・イナズマ戦隊」というロックバンドでドラムをたたいている。一年中ライ
ブ活動で全国を飛び回っているので正月しか休みがとれない。
結婚式には私の妹弟達も全員出席し終了後そのまま実家へ移動、6日には新婦の親族と我々妹弟
合わせて20名程で新年会を兼ねて盛大な結婚祝賀会Uをやり実家に泊まった。
料理は「寿司」と「毛がに」と「十勝ワイン」そして「手づくりチーズ」に「お漬物」。
勿論、サバ寿司がこれでもか・・・と言う位並んでいた。
カラオケで盛り上がり、久々の実家での宴を夜遅くまで楽しんだ。
私の誕生日を兄弟みんなで祝ってくれました 翌7日は雪原と青空の間に日高山脈がくっきりと見える十勝晴れ。
7日は七草、朝食は七草粥だ。
その前に・・・と妹が「バースディケーキ」を運んできて私の前に
おいた。ケーキには「洋一さん誕生日おめでとう」と書かれたチョ
コが飾られている。1月7日が私の誕生日だと言うことを知ってい
た妹、弟たちが密かに用意をしてくれていたのだ。
私の隣には母がニコニコ顔で座っている。こんなサプライズがあるとは知らなかった。
♪Happy Birthday To You・・・みんなの大合唱。
66本ものローソクを一気に吹き消した。
誕生日のお祝いなんて生まれて始めての経験である。
実家に母と兄弟7人が全員集合、それに新郎新婦と新婦の親族も一緒になって私の誕生日を祝ってく
れた。
結婚式が5日でなければ絶対に実現しない誕生祝だった。結婚した甥に心から感謝をした。
  50年前、私の我が儘で家を飛び出し母や妹や弟達に長男らしいことを何一つしてあげられなかっ
たと思う。それでも誕生日をチャンと覚えていてくれた。
その時は照れ臭いだけだったが時間が経つにつれてだんだん感激がこみあげてきた。
母と並んで撮ったビデオの映像は一生の記念になる。
50年前、母からの手紙を読んだ時こんな日が来るなんて思いも及ばなかった。
20、絵画クラブ・・・図にのってしまった話
  洋友会の事務所で辻川先生と初めてお会いした時、先生とのお付合いがこんなに深くなり、
定年後の楽しみの幅を広げる結果になるとは思わなかった。
先生はご自身で描かれた水彩画集や花の写真、外国の有名な山に登った写真などをリュックサッ
クいっぱい持って来ておられた。
三洋電機にもこう言う方がおられたのか。凄いと思いながら奈良の寺院や外国の街並みや風景を
描いた「小型淡彩スケッチ」に魅せられた。
辻川先生はこれらをホームページにしたいと言う希望を持っておられた。
早速、浜辺相談役がいろいろアドバイスをされ、制作に掛かる段取りができた。
同時に折角、絵の先生が洋友会に入ってくれたのだから「絵を習おう」と言う話が持ち上がった。
ホームページ作りにしても絵を習うにしても辻川先生が札幌に長期滞在される2年間位で目途をつ
けなければならない。
辻川先生はホームページを制作ソフト「ホームページビルダー」で作りたいと考えていた。東京の
娘さんが「ビルダーを使っている人が多い」「参考書も沢山売られていて将来、札幌を離れても安
心」というアドバイスをしてくれたからだと言う。
  PC倶楽部では相談役が我々初心者向けに見つけてくれた「HOTAL」を使っていた。誰も「ビ
ルダー」を使ったことが無い。私は相談役に悪いとは思ったが「私がビルダーを勉強して手伝って
あげたい」と申し出た。相談役は気持ちよく許してくれた。
私をそうさせたのは、辻川先生の情報量“コンテンツ”が質量ともに素晴らしく「コレを埋もれたまま
にしておくのは勿体ない」と考えたから。
辻川先生にその旨お伝えし一ヶ月だけ勉強のための時間をいただいた。その間2〜3度お会いし
「設計図」作りをした。コンテンツの項目、デザイン、タイトルなどを話し合い、ノートに書き留めてい
った。制作する順序や分担も決めた。作品につけるコメントはご本人でなければ書けないので
「Word」で作っていただく事にした。
何度目かの打合せを我が家でした時、先生が新品の「絵の道具」を持ってきた。絵の具、サインペ
ン、筆、用紙など一式を買ってきてくれたのである。そして「絵を描いてみなさい」と言う。そんな事を
突然言われても・・・と戸惑いながら描き方を習って何枚か描いてみた。
妻もそばで見ていたので先生は私のメンツを潰さぬよう「筋がいい」と褒めてくれた。
辻川先生のホームページ「時・遊・自・彩」は着々と完成に近づいていった。お手伝いをしながら私
も多くのことを勉強した。レイアウト、色調、文章など、「辻川イズム」が随所に活かされている。
6ヶ月程掛かって完成、アップロードした。PC倶楽部のみんなが感心した。
平行して絵画クラブが発足し活動がスタートしていた。
自宅まで道具一式を持って教えに来てくれた辻川先生に応えなくてはならない。私が浜辺会長
(当時)はじめ、小池さん、安達さん、峯吉さん、中川さん、菅原さん、岡山さん、藤本さんなどに
声を掛けて10人ほど集まった。
第一回目、辻川先生の作品や画集を見せていただきながら「絵を描く」と言うことについて先生から
お話を聞いた。「上手、下手は余り関係ない、描いて楽しければよろしい」「絵は何歳になっても描
ける〜最高の趣味だ」「早く、数多く描くのが上達のコツ」そんなことを話された。そしてみんなに自
分の描きたいのはどんな絵か?と聞かれた。
「坂本直行さんのような花や風景を描きたい」と私は言った。
辻川先生は我々を大通公園や知事公館、モエレ公園などに連れて行き、思い思いに絵を描か
せ、一人ひとり筆を入れてご指導してくれた。
「マックの絵画教室」「趣味としての絵画」など書店のコーナーにあるような素晴らしいテキストも作
っていただいた。
’05年6月、辻川先生は北海道での長期滞在を終えて奈良の自宅へ帰られた。残された絵画クラ
ブのメンバーは菅原リーダーを中心に活動。作品はホームページにアップする。それを見てくれた
辻川先生からメールでアドバイスが届く。みんな感激した。
私は他人に教えるという事が大の苦手。自分で理解していてもそれを他人に教えると言うのはとて
も難しい。浜辺相談役のパソコン指導と電話でのサポート、辻川先生の絵の指導などを受けてつく
づくそう思う。
渡辺淳一著「鈍感力」に「才能のある人の周りには、必ず褒める人がいて本人がその褒め言葉に
簡単にのる。この褒められて図にのること(鈍感力)が大きな効果を表す」とある。
妻の前で「筋が良い」と褒められた。
才能はないが私は褒められて図にのってしまったのである。
振り返ってみると辻川先生は「褒めて図にのせる」タイプの名指導者だと思う。
21、際限なく広がるPCの世界
  PC倶楽部でホームページ作りを勉強し、それ以来パソコンに嵌ってしまった。
最初にパソコンを買ったのは現役時代に社員斡旋で買ったデスクトップだった。
その後、買い替えて現在は5台目。Dellのデスクトップとノート型を使っている。プリンターも3台目、
デジカメも3台目、インターネットへの接続は「ADSL」から最近Bフレッツの「光高速インターネット」
に変更した。
今は便利なソフトがいろいろ発売されていてあらゆる作業がパソコンで出来る。
ポスター作成、メンバーズカード作成、シール作成、アイロンプリントでTシャツやのぼり制作など、
特殊な作業もやってみた。コストを考え写真屋に出していた写真のプリントも最近は自分でやる。
インク代が掛かるので純正と詰替えインクを交互に使っている。
見本市会場でデモをする為のプレゼンテーションCDをPowerPointで作った。
初期の頃は音楽CDをコピーする位だったが最近はDVDのコピーや制作を楽しんでいる。
パソコンがあればやりたい事が何でも出来るが周辺機器も増えていく。
例えばヨサコイのビデオ撮りを引き受ける。デジタルビデオカメラが無いので購入する。
カメラからPCに映像を取り込むためのIEEE1394端子がないのでPCに組み込む。
編集ソフトを購入する。機器やソフトの解説本を買う。
ノート型PCを買ったキッカケは札幌広尾会の20周年記念イベント。50年前のセピア色の写真と現
在のカラー写真を対比して「いまの広尾・むかしの広尾」というDVDを作成。その中に「さよなら広尾
線」のVTRを挿入する。それを液晶プロジェクターでスクリーンに写して見ていただく。
どうしてもノート型PCが必要になった。
インターネットの環境も無線LAN、有線などいろいろ採用してみたが満足が行かない。
現在は浜辺相談役にすすめていただいた「PLC」を使っている。コレは家庭内のAC100V電気配
線を使いコンセントからインターネットの信号をやり取りするスグレモノだ。
機器やソフトが整備され最近はやろうと思えば殆どの事は出来る環境が整った。
結婚式のビデオ撮影、編集、DVD制作。母の米寿祝いのDVD制作。DVDのケースを買ってきて
セルDVDと同じような体裁のDVDを作ったら大好評だった。
PC倶楽部はDigitalDivide(情報格差)からの脱却に大きく貢献している。インターネットを通じて
情報を得ることが出来るか否かでトクをしたり損をしたりする時代になっている。メールが出来るか出
来ないかだけでも時間的、経済的にずいぶん差がついてしまう時代。
PC倶楽部では自分がやりたいと思うことを誰かが教えてくれる。
これから新しい機器やソフトがどんどん発売されPCの世界は際限なく広がっていく。
ボケ防止と趣味の幅を広げるため(お金と能力が)可能な限りついて行きたいと思う。
我が家のPC環境
22、続・私の一病息災
  リタイア後、一時的なアルバイトを除いて収入は常に一定である。「入るを量りて出づるを為す」
を基本にしなければ家計は成り立たない。
出費の中で予測が出来ないもの、その最たるものは医療費だと思う。健康の維持の為に生活習慣
を見直し継続すること・・・これは再就職をして収入を増やす事と同じかそれ以上の意味があると思
っている。健康の維持は自分にとって一大事業である。
「糖尿病をコントロールし合併症を起さない」が健康管理の基本。月に一度、主治医による健康チェ
ックは継続の源泉だ。
人間の臓器も60年以上動き続けるとアチコチにガタが来て故障しやすくなる。
2年前、胆のうの切除手術をした。
毎月の健康チェックで小さな胆石が見つかった。今は痛くも痒くもないが発症したら激痛がはしると
いう。折を見て取った方が良いとのアドバイスで切除を決断、二週間の入院で胆のうをとった。
手術といってもお腹に開けた小さな穴から腹腔鏡を入れて切除するので術後の回復が早く、手術
の痕も殆ど残らない。発症して七転八倒状態で手術をしたのではこうは行かないとの事。早期発見、
早期対策で本当に良かった。
昨年、前立腺肥大の手術をした。
この病気、60歳を過ぎると半数以上の人が悩まされているのだが、下半身の病気だけに経験しても
情報交換の機会が少なく潜在化していることが多い。恥ずかしさが先にたち泌尿器科へ行くのも
「我慢が出来ない」状態になってからとなる。私がそうだった。そのような人の参考になればと考え体
験記を書くことにした。
50代後半からトイレが近くなりオシッコの出も悪い。夜中に何度もトイレに行く。残尿感がある。
トイレに入っても後から入った人が先に出て行く。
前立腺のしくみ 相当の決意をして三樹会病院(泌尿器科)で診てもらったら前立腺
肥大だという。時期を見て手術をした方が良いと言われ薬を処方し
てくれた。
この時の診察には驚いた。ベッドに前屈しお尻を突出せという。そ
の姿勢をとると先生が「チョッと動かないで」と言っていきなり肛門に
指を入れた。「ズボッ!」ムッときて看護婦を見たらすまし顔。
こんな事で分かるのかと不安になった。
前立腺は男性だけにある臓器。膀胱のすぐ下にあり、尿道をドー
ナツ状に取り囲んでいる。正常な前立腺は栗の実くらいの大きさ、
成人男性で20g前後。前立腺は年齢を重ねるにつれて大きくなるが、大きくなり過ぎると尿道が圧迫さ
れオシッコが出にくくなったり頻繁にトイレに行きたくなる。
肛門に指を入れたのは前立腺の大きさ、形状、硬さなどを瞬間的に触診したのであった。
5年くらい薬を飲んで治療を続けたが改善されず昨年の夏、思い切って手術をした。
「経尿道的前立腺切除術」といって尿道からループ状の電気メスを挿入して肥大した前立腺を削り取
る手術である。前立腺が余りにも大きくなっている場合は下腹部を切り開いて前立腺の外側の膜を残
し、内部を摘出する手術をするが幸い私の場合は「経尿道的前立腺切除術」で良かった。
手術は下半身麻酔で40分位で終わった。意識はあるから時間の経過、器具の音、レーザーで傷口を
焼くニオイなど状況がわかる。痛みは全然感じない。
術後は一日安静。尿道に管は入っているが2日目からは歩けるようになりシャワーもOKだった。一週
間経つと尿道の管も外され内部の傷口が塞がるのを待つ。
術後の検査がいくつも行われ尿に血が混じらなくなると退院の許可が出る。
私の場合は、手術前の検査から手術、退院まで20日間の入院だった。
ついでに、切除した組織を検査した「前立腺がん」の結果も陰性で問題はなかった。
さて、手術後の排尿だが「快適」の一語に尽きる。「ジョーッ」と勢いがいい。まさに20代のそれであ
る。残尿感もない。夜、トイレに行く回数も一回位となった。
「案ずるより生むが易い」である。もっと早く手術をすれば良かった。
胆石と前立腺の手術を通じて学んだこと・・・早期発見、発見したら出来るだけ早く原因を除去す
る。体力のあるうちに処置をした方が体への負担が少なく回復も早い。
・・・・かくして、私の「一病息災」は継続中である。
23、これから
昨年10月から毎月3回、22回に亘って思いつくままに書き綴ってきた「はるばる遠くへきたもんだ」
も終章を迎えることになりました。
自分史といっても洋友ほっかいどうの投稿欄ですから書くことには自ずと制約があります。
親や兄弟や子供たちに伝えたいプライベートなこと、43年間のサラリーマン人生で経験した人間
模様や仕事の事などは別なファイルに綴じこんでおきたいと思います。
  農家の後継ぎという立場でありながら家業に将来の夢を見出せず、現実から逃げたい一心で
社会の荒波に漕ぎ出した洋一丸。明確に「やりたいこと」や「大志」があって家を出た訳ではありま
せんでした。
まさに猪突猛進、今考えると若さとはいえ無謀なことをしたものです。
幸い成長期の三洋電機にめぐり合い43年間も働かせていただきました。
30歳前半頃までは壁に突き当たると「親に謝ってもう一度、家に帰ろうか」と思ったことも何度かあ
りましたが「ここまで来てしまったのだから今更帰るわけにいかない」と思い直し弱気を振り払ってき
ました。
人生も最終章にさしかかろうとしている今「はるばる遠くへ来たもんだ」とつくづく思います。
「わが人生に悔いはない・・・」とはいきませんが、いつか「鏡に映るわが顔にグラスをあげて乾杯」く
らいはしてみたいと思います。
昨年12月、麻雀仲間の「う〜さん」が亡くなったばかりなのについ最近、高校時代の友人が癌で逝
ってしまいました。クラス会の幹事を一緒にやってきて来年クラス会で会えるのを楽しみにしていた
だけにとてもショックです。
一方、道想会でお会いする先輩の皆様はとても元気で旅行や趣味を精一杯楽しんでおられます。
奥様と仲良く写真におさまり一緒に食事をしカラオケを楽しみ大声で笑う・・・健康そのものの先輩
の生き方に自分もそうありたいと思います。
文中に何度か登場した私の母も今年、卒寿(数え年で90歳)を迎えるのにとても元気でいつも私た
ち兄弟や孫、ひ孫のことを気にかけてくれます。
私も「一病息災」で今のところ体力も気力も充実し他人のために働ける立場にいます。
毎日がとても忙しい。妻など、もう少しのんびりと楽をした方が良いのでは・・・と言ってくれますが
「いや、頼りにしてくれる人がいる間は70歳まで頑張る」と受け付けません。
最近「おまえは若くないんだぞ」と思い知らされた出来事が二つ続けてありました。
ひとつは昨年の12月、家内と一緒にインフルエンザの予防注射をしに病院へ行ったときのこと。
渡された書類の色が私と家内とで違うのです。看護師さんに「どうして?」と聞くと「65歳以上の方
は札幌市から助成を受けられるからです」との返事。
注射が終わって支払いのとき納得しました。妻は2,500円、私は1,000円だったのです。家内に
「どうだ!歳をとるといい事もあるんだぞ」と言っては見たものの寂しい気持ちがよぎりました。
3月末のことです。民生委員というおばさんが来て「これ使ってください」と置いていったもの・・・・
良く見ると札幌市の「敬老手帳」でした。
「こんなものいらないよ」と言うと「持っているといろいろ良いことがありますよ」といってアンケート用紙
と一緒に置いて帰りました。
若いと思って頑張っているのに何で「お前は年寄りだ!老人だ!」と決め付けるのか。
民生委員のおばさんが帰った後しばらく怒りが収まりませんでした。
敬老手帳は本棚の目立たないところに放り込んであります。
・・・とは言うものの70歳まであと4年です。
洋友会のクラブ活動に趣味の家庭菜園やパソコン、ボランティアでお手伝いしている歩こう会や町
内会、それに札幌広尾会とヨサコイ。自分が楽しくて周りの人から喜ばれることは続けて行きたいと
思います。
そして70歳になったら(石原慎太郎さんではないけれど)人生という劇場の決して短くはない最後
の幕をたっぷり味わいながら生きていきたい・・・・と思っています。
7ヶ月間にわたり「はるばる遠くへ来たもんだ」をお読みいただき有難うございました。
また、メールや電話で感想や激励をお寄せいただきました皆様に心からお礼を申し上げます。