22、三洋電機北海道特機鰍フ経営と解体
  出来事が一杯あり過ぎて一つに纏まりませんので出来事別に記憶を辿ってみたいと思います。
  秋の日の始業前に中田さんが来て「腰の具合が悪いので南1条病院に検査入院して来る」と言われた
ので「よく診て貰った方が良いですね」・・・誰も永久の別れになるとは想像もできなかった。
  その年の12月31日、年の瀬に幕を引くように息を引き取られた。年明け早々の葬儀には取引先をは
じめ三洋グループからも荒田副社長、村山さん、湯藤さんなど特機創業時に苦楽を共にした仲間が別れ
を惜しんで参列されました。私は弔辞で「戦術に長け勇猛果敢な戦国時代の武将に匹敵する活躍と功績
は北海道特機部門の中興の祖」と・・・、特に環境チェーン店会の設立・強化に多大の貢献をされました。
  その後、岩瀬社長が本社に転勤され、後継3代目社長の辞令を受け取る事になります。諸先輩が築い
た諸々の財産を維持・発展させることと販売会社の体質強化が使命であると認識しておりました。
  当時は高金利(年率7〜9%)時代で、皆で頑張って稼ぎ出した利益が最終金利収支(経常段階)で
赤字になる状況でした。全体的には三部門(住説・空調、食品機器、自販機)とも略均衡した営業成果で
したが占有率は主要部門でトップを維持しておりました。「占有率だけでは飯は喰えない」地域販社の厳し
い現実に直面していきます。地域販社といえども利益無くして存続は有り得ない・・・が信条で事業部との
厳しいやりとり、全体の意識と業務改革、得意先とのドロドロした折衝などに終始し泣きと笑いの連続でし
た。P=(M・V)X(M・S)X(p−c)がプロフィット(利益追求の)方程式ですが、最大化と最小化の組合せバラ
ンスのやり取りが事業運営そのものであり優勝劣敗を決定づけます。事業全体の意思統一が狂いだし一
方的な判断や決定がなされるようになると、バランスが崩れて弱い所にガタがきて長続きしなくなります。
  どんな条件下でも2〜3年は企業活動が継続できるよう、受注残の確保や流通キャパを腰溜め出来る
販売網構築が急務でもありました。
  東札幌ビルへの移転を決意しました。13丁目のビルでは地下の販促倉庫を含めると6フロアーに分
散してしまいます。作業効率が悪く事務所経費も割高で移転先を物色中でした。ワンフロアーでコミュニケ
ーションがスピディーにとりやすいところが理想的でしたが自社ビルの活用が前提条件になっておりました。
  テクノセンターの本格稼動から一階にテクノセンター・食品機器・自販機部門が入り、2階に住設空調部
門と総務部が入り何とか2フロアーで収まりました。固定費の削減に繋がったのも事実ですが改善・改革事
項が目に見えるようになってきました。
  困った事もありました。ビルの安心・安全管理です。かなり点検・管理をやっていたのですがボヤ騒ぎを
起してしまったのです。1階のシャッター横に積んでいたゴミ袋から発火して部分的でしたが焼損事故にな
った。朝方で発見が早く近隣の皆さんのご協力を得て消火器で消火出来たとはいえ、警察や消防の厳し
いお叱りを頂き管理センターにも迷惑を掛けてしまいました。当時の本部長が杉本専務(故人)で全国責任
者会議での報告・陳謝で許諾して頂きました。原因については明確な結論が出ませんでしたが社内の不始
末であることは事実です。掃除のおばさんにも心配と迷惑を掛けました。安全管理には際限が無い事を痛
感しました。
  各部門とも製品力、販売力、収益力の向上に事業部と一体となって推進しました。技術・生産・販売・サ
ービスが一気通貫で完結する方針でしたが初期的な品質問題も相変わらずで精神的にも物質的にもかな
りの負担になります。3部門とも順調に推進できた事は無かったと思います。セールスマンの営業日報をみ
ると稼働日数の7〜8割が品質問題で動いていた時期もかなりありました。連続・継続対策になると士気にも
影響します。事業毎の収支(採算)を明確にする作業も必要となり後向きの仕事やグループ間取引(折衝)
も多くなってきます。こういった事が事業構造の見直しに繋がっていきます。
  若手社員が年頃を迎えて所帯を持つようになります。学生時代から付合っていた彼女と結婚するので
仲人をお願いします・・・という頼まれ仲人です。僭越ながらも5組の仲人をさせて頂きました。離婚組みは
皆無で有難いと思っております。
  自販機部門が製販一体組織になり北海道特機から出て全国一社体制の北海道支店になりました。
一抹の寂しい感じはありましたが自販機部門は一気通貫でやるべきと考えておりましたので賛成しました。
競合先であるF社より総合占有率では勝っていました。中身飲料メーカー別でもH.CCBさんをはじめ健闘し
ており、後は品質コストの大幅削減が叶えば強力な事業分野になると期待していたのですが皮肉にもF社
への身売りが突然発表されることになります。この時、私は営業開発本部に移動しておりましたが自販機の
皆さんにお話したのは「自販機のプロとして自販機業界の為にも今までの経験をF社で発揮して欲しい。
業界のリーダー、F社のリーダーを目指して頑張って下さい」・・・・・中には、今まで対抗してきた会社には
行けない・・・と退社して全く別の業種に再就職した人。F社に行って今はリーダーとして奮闘している人。
それぞれですがどちらにもエールをおくっています。あの時は身が引き裂かれる思いでした。
  住設・空調部門では主要代理店ごとにサンヨー環境チェーン店会(SEC)を結成して店会活動を推進し
ておりました。前身のガス厨房ルートの「ひまわり店会」、ポンプルートの「ポンプ店会」、ボイラールートの「ヒ
ーティング店会」を統合し全道組織化して15店会と代理店組織を合体した連合会組織です。その発足25
周年記念大会を特機部門と関係の深い中国大連市で開催しようという計画が役員会で決定され、その協
賛セールも発表されて300店全店参加をスローガンのもと全道一円熱く燃えて強力展開されました。その
結果として平成8年(1996年)5月5日〜5月9日まで4泊5日で大連〜北京〜上海を総勢222名で開催致
しました。旅行社はグループのロイヤルツーリストで千歳〜大連、上海〜千歳はANAのチャーター便。
中国国内は定期便を団体貸切で移動しました。大連市での記念大会は壮観でした。大連市政府から長副
市長を始め幹部が20名ほど列席されご挨拶を頂き、25周年記念大会が国際的なムードのなか盛大に挙
行することが出来ました。
  新築ホテルの大ホールに250名分の会議テーブルが整然と配列されたスケールはステージ上で挨拶し
ているとき身震いするほどでした。通訳を介したスピーチは始めてでしたが、間のとり方が難しいものだと感
じました。夜の宴会もチャイナドレスの麗人を交え中国料理と紹興酒を頂きながら25の円卓を全てお酌に
回りご挨拶させて頂きました。各テーブル毎にもの凄い盛上りようで「やって良かった」と実感し熱いものを
感じました。この会議の模様が地元紙「大連日報」の翌朝刊に掲載され北海道三洋電機集団熱烈大歓迎と
報じられました。大連市と三洋電機との深い信頼関係の一端を垣間見た感じがしましたがその後も随所に
配慮が行き届きました。
  大型バス5台で移動しますが大連市と北京市では先頭の覆面パトカーに連合会会長、大連市外務省
役人が後部座席に乗り先導します。信号が赤でも、一方通行の逆方向でもサイレンを鳴らしてノンストップ
で通過して行きます。正にビップ待遇で工場視察などの行事がスケジュール通り進んで行きました。国際都
市上海では流石にこの方法は遠慮して遅れ遅れで最後のスケジュールを消化しました。皆さんのご協力の
もと大過なく千歳空港に着陸出来たときには一世一代の行事を無事やったという感慨で涙が出ました。
今でも参加された方と会うと時間を忘れるぐらい思い出話に花が咲きます。
関係者の皆様に感謝しております。
  食品機器部門でもCF店会を組織して年度総会、工場見学会などを開催しておりました。40ヶ月の社長
在任期間はあっという間に過ぎてしまいました。悲喜こもごもの3年余でしたが毎日が行事の連続だったよう
に思います。3部門ごとの行事が計画されて出来るだけ出席しておりましたので会議、宴会(酒宴)、親睦行
事、ゴルフコンペ、研修旅行会など様々ですが酒宴が毎晩(最高4日連チャン)とかゴルフがプロ並みに
4日連続となると程々苦しくなりました。体力勝負ですが当時は拡大営業路線の商法だったのでしょうか。
  結局、特機部門は業界毎に生販一体の組織に再編されていきます。昔は組織の改変が業容拡大に繋
がりましたが、徐々に縮小均衡的な改変に進んでいきます。全国の特機会社は清算され新しい組織に引
継がれていくことになります。
次回につづく・・・
次回は 2月20日更新予定・・・