20、北海道と庄内(鶴岡)との関り
  江戸時代の後半(今から150年程まえ)に北方諸国(ロシアなど)からの侵攻を防ぐため幕府が北方守
備隊を編成した。その主力が東北列藩で庄内藩も日本海沿岸の殆ど(天塩から島牧付近まで)を防衛の
任にあたった。
  派遣されたのは武士ばかりでなく農家・漁師・大工・鍛冶屋・造り酒屋・商家なども一緒で各主要拠点
で自給自足ができるよう構成されたかなり大掛かりな遠征だったようです。しかし幕末の戊辰戦争で隊士
(武士)達は国許に引き揚げて官軍との決戦に臨んだが同行した民間の殆どが残留・土着して沿岸各地
区の町づくりの中心を担った。
  戊辰戦争で西郷隆盛の参謀であった黒田清隆は庄内藩を討つため郡部での野戦を勝利しながら鶴
岡城に兵を進めたが奥羽きっての強藩といわれた庄内武士との長期・消耗戦を避け粘り強い説得を重ね
て開城させたとされている。藤沢周平の小説「たそがれ清兵衛」の主人公:井口清兵衛(無形流の達人)も
この戦で官軍の鉄砲に撃たれて戦死しております。
  庄内藩の折衝役として奔走したのが松本十郎で維新後に新政府の要人として迎えられ、北海道の漁
場開拓、農地開墾、稲作普及、アイヌ民族の保護など北海道初期の産業振興に貢献した。黒田が開拓
使長官に就任した折に松本十郎が大判官(副知事相当)を務めている。
  明治8年の札幌の人口は2,570人(866戸)で札幌の中心部も現在の植物園の様子から想像できる
ように一帯が原始林であったようです。松本はこの地を開墾し桑畑にして養蚕事業を興すことを黒田に建
策した。黒田からの要請で來道した旧庄内藩士156名が6月4日から9月15日までの間に道庁の西側約
21万坪(70町歩)を開墾し桑の苗4万株を植えた。これが桑園という地名の始まりで北海道の殖産振興の
スタートになります。つい最近まで桑園駅の周辺に桑畑の一部が残っておりました。毎年8月、桑園連合
町内会が主催して知事公館に建立されている「桑園碑」の前で藩士の遺徳を偲びながら桑園開拓祭が行
われております。松本十郎は黒田長官とアイヌ民族の保護をめぐって意見が対立して辞職し、故郷に戻っ
て晴耕雨読の余生をおくられたようです。
  桑園開墾と同じ時期に函館の大野地区に約70名の藩士が投入され同様の開拓事業に従事してい
る。屯田兵としての入植を含めて全道各地に祖先が開拓の足跡を残しているが今、札幌山形県人会(約
410名)をはじめ各地に26の山形県人会が結成され北海道連合会が組織されている。木古内に鶴岡の
地名が現存しています。
  祝津の「青山別邸」も庄内遊佐出身の鰊漁網元の青山家の別宅で京都から宮大工をよんで莫大な資
金を投入して娘さんのために建てたそうです。
次回につづく・・・
次回は 2月 1日更新予定・・・