16、本社(大阪)勤務と海外視察
  昭和48年の12月にポンプ会社の企画部(本社:淀
 川)の辞令が出た。住居は社員の借上げ住宅で京阪
 電車八幡駅から徒歩10分ほどの住宅街で二階建ての
 立派な住宅でした。大阪と京都の境目で京都府八幡
 町(現、八幡市)、駅前の丘陵一帯が石清水八幡宮で
 歴史的に由緒のある地でした。12月の朝晩はかなり
 冷えました。電気ストーブを買って暖をとるが温まらな
 い。手持ちの石油ストーブ(キャビット)を使うため灯油
 を買いに出たが石油危機の為か新規客には売ってく
 れない。小さい子供が寒がっているのを思うと何として
 も買って帰らないといけないが3軒ほど断られて消沈し
 ていると米屋が灯油の看板を上げているのが見えた。
 断られて元々で事情を話したところ米を定期購入する
 のであればオーケーと言う。諸手をあげてサインをし、
ヨーロッパ視察 パリ (凱旋門の前で) (写真をクリック拡大)
ポリタンクに2本分けて頂き何とか年を越すことが出来た。通勤は京阪電車で八幡から門真まで行き、環
状高速沿いに15分ほど歩く約1時間ほどの行程でした。門真は松下さんの本社や工場が多く駅から行列
ができる朝の光景で関西独得の騒がしさを感じる毎朝でした。
  仕事は企画部開発課で新製品の企画・開発の担当です。事業部(滋賀)と協議して進めていくのです
がオイルショックの影響もあり開発計画が再三遅延して事業計画にも悪影響を与える状況にありました。
先ずは現計画を洗い直して事業部から確約書を
徴求することから始まりました。口約束的な事で
は解消できないことから設計、品質保証、資材、
製造の各部署毎の工程を明記して各責任者に
確認印を押印して頂き約束手形方式で緊張感と
連帯感を高めていきました。淀川と滋賀を往復
するのに電車では不便なのでサニーの中古車を
車両担当の方を介して購入した。午前中は淀川
昼からは滋賀で仕事するパターンで新型ライン
ヨーロッパ視察 フランス リヨン市ジュリアン・メージュ社・・・・・
(写真をクリック拡大)
・・・・
ポンプ、ポンプシスターン、水道加圧装置、キャンドポンプなどの発売に向けた仕様決定や試作機による
各種テスト運転が始まった。
  東大阪(河内)の三洋精機工業鰍ェポンプの主力工場で微量試作や量産試作にも立会って営業サイ
ドからの視点で意見を出しあって対立する事も幾度と無くありました。なんとか新製品の対外発表ができる
ようになり、空調設備鰍ニの合同発表会を全国拠点毎に開催した。ポンプ会社からは谷本常務と参加し新
製品の内容について説明させて頂きました。空調設備鰍ヘ東京三洋が全面バックアップで黒川社長、倉
橋専務が自家用機で応援にきてました。福岡会場の説明会が終わってから谷本常務に川端で夕食をご
馳走になりましたが、流石に九州勤務が長かったこともあり檀家回りにカバン持ちでお供させていただきま
した。ポンプ業界はエバラ、川本、極東などの専業メーカー10社程と日立、東芝、三菱、冨士、松下など
の電機メーカーで覇を競いあっていました。同じ事をやっても勝ち目が無い事は明白で小型タイプのライ
ンナップ強化を目指しておりましたが空調設備鰍ゥらキャンドタイプの早期開発と市場投入を強く要請さ
れておりました。空調設備鰍ナは暖房・給湯関連のグローバル先進メーカーとの技術提携やシステム部材
などを積極的に導入し先端技術のシステムを売りにしており設計事務所、サブコン、ゼネコン等から高い
評価を得ておりました。12月に入るとヨーロッパの暖房機市場の調査とフランスのキャンドポンプメーカー
「ジュリアンメージュ社」訪問、ベルギーブリュッセルでの国際空調展視察などの日程が計画されて行きまし
た。ポンプ会社からは企画部長が参加する予定でしたが全国の代理店会議と日程が重なることから夢に
も考えてなかった私にお鉢が回ってきました。それまで海外旅行の経験が無く、それもヨーロッパ2週間と
は本人が一番ビックリです。本社勤めでセールス手当てをカットされて汲々の生活でしたから余裕(貯金)
も無かったのですが家内が少々のヘソクリから小遣いを回してくれた。ドルレートが260円から300円の時
代ですから3倍近いドル高の時代で貴重なドル札でした。三洋電機グループから5名と貿易会社(東西商
事)比呂社長(小樽出身)と計6名の視察団。3月中旬、ソビエトのアエロフロートで日本海を北上してロシ
ア大陸を約8時間で横断しモスクワで給油し、パリまで4時間かけてオルリー空港に到着しました。シャン
ゼリゼ通りに近いビジネスホテルに同じ日の夜に着ました。太陽を追い駆けながら飛んで来た事になります
が3月のパリは未だ寒くて微熱気味のため早目に寝ました。
  リヨンはパリよりも重厚さを感じる街でした。訪問したジュリアンメージュ社ではフランス人の海外営業部
長と通訳が対応してくれました。会話のやりとりは、我々と比呂社長が日本語で、比呂社長と通訳が英語
で、通訳と海外営業部長がフランス語でと少々回りくどい感じでしたが比呂社長はフランス語も少し出来て
ゼスチャーを交えて熱弁を奮ってくれました。基本的に三洋グループとしてジュリアンメージュ社との提携
を前向きに検討する事で合意しサンプル機の手配、品質保証、納期、価格、性能資料、電取法申請など
について煮詰めました。夜は同社会長主催の夕食会に招かれました。リヨンはフランス料理の発祥の地で
古い都で歴史もあり大変ゴージャスなレストランでしたが料理が出て食べ終えてから次の料理が出てくるま
で結構時間が掛かって性に合わない感じで最後にはどこに入ったか判らない満腹感でした。フランスも含
めてヨーロッパでは古い街と新市街地を上手に分けて活用しており何百年も前からの石造建築が内装を
替えながら住宅などに大事に継承されておりました。
  パリからブルッセルまでは国際特急列車で、個室スタイルの客席にビックリで、ビジネスマンがタイプラ
イターを忙しく叩いている姿が目立っていました。ブルッセルの夜の街を探索しましたが映画「飾り窓に女」
のように大きなウインドウに着飾った女性が椅子に座っている店が多くありましたが人形の展示会を見てい
るような気分でホテルに帰還。国際空調展の規模と内容は初めて体験するものでした。関連するカタロ
グ、サンプル等を一杯集めてホテルからシーメールで送りました。日本からの視察者も大勢来てました。
全世界の有力メーカーがこぞって出展しており、同業他社も世界の最先端企業と提携して、デザインは
同一で規格・仕様を変更し市場投入している現実を見聞できました。うっかり出来ない緊迫感が強烈に湧
いてきました。旧市街の一角に有名な小便小僧の像が建っていましたが時計台より寂しい光景でした。
ブルッセルからライン川沿いに列車で西ドイツに入りデュッセルドルフ、シュツットガルト、ミューヘンとドイ
ツ国内の企業を訪問しましたが気の付いた事を少々列記しますと・・・・・・
  @食事がとても質素で特に朝食はパンとコーヒーだけです。物足りなくて高いハムエッグを追加注文し
  てました。
  Aどこに行っても日本食堂やレストランが数軒ありました。日本人の世界進出も凄い、勇敢な人が多く
   いるんだ・・と。
  B格式のあるホテルで男二人なのにダブルベッドルームに通されてギャフン。クッションを床に降ろし
   て寝ました。
  C中小企業(工場)の熟練工は祖父、父と同じ仕事を代々引継いでいる・・・世界中と取引している企
   業が多い。
  Dドイツのアウトバーンも含めて運転スピードの速いことに冷や汗・・・150〜200Km/hで走ってまし
   た。
  帰国後の協議でジュリアンメージュ社のキャンドポンプはヒーティング関連部品として空調設備鰍ェ輸
入・発売することになりましたが、最後までポンプ会社がやるべきだと主張し猛反対した小職は昭和49年
12月の辞令で仙台に転勤する事になります。
次回につづく・・・
次回は12月20日更新予定・・・