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15、名古屋転勤と分社体制 |
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昭和46年9月下旬、本社の荒田部長(当時:住 |
宅機器営業部長)が来札され会議の後に名古屋 |
営業所転勤を命ぜられました。その晩、早速に送 |
別会です。責任者は岩永所長に変っておりまし |
た。札幌三洋住宅機器販売鰍立ち上げて半年 |
ぐらい経過した頃でした。転勤はサラリーマンの |
宿命であり一切を社命に従う事を信条としておりま |
したが所帯を持って初めての事であり家内の反応 |
を一寸心配しておりましたが意外とサッパリで早 |
速荷造りの相談になりました。長女が1歳の誕生 |
昭和47年頃 名古屋時代 (前列左端) (写真をクリック拡大) |
日を迎えた頃です。 |
私の仕事は村山主任(先生)が戻って来られて引継いでくれました。名古屋での仕事は空調ポンプ販 |
売課のポンプ販売係の主査で私を入れて8名で中部5県下(愛知、静岡、三重、岐阜、長野)の地域でポ |
ンプ機器、ファンクーラー、浄化槽の担当です。特機名古屋営業所の所長が谷本万次郎氏で公私共に |
大変お世話になりました。住居は前任者が住んでいた西春の借家に引続き入居しましたが平屋でかなり |
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古くて狭い家で家族3人の生活がスタートしました。名 |
鉄犬山線の西春駅と名古屋駅間の通勤、朝のラッシ |
ュはもの凄いものでニッチモサッチモ微動だにできな |
い押込みでフケだらけのオジサンに囲まれた時は窒 |
息死状態でした。名古屋の暑さは格別でした。伊勢 |
湾上で熱せられた湿気の多い熱風が朝でも夜でも吹 |
き込んで来ます。エア・コン無しでは寝れない事が判 |
り早速取り付けしました。子供の汗疹も毎日2〜3回 |
のシャワーでなんとか凌いでおりました。 |
名古屋時代 の同僚と (前列右端) (写真をクリック拡大)・・・ |
各県毎の担当者が専業代理店、住機会社、市販会社、設備会社を担当しており、私は担当者との同 |
行営業が主体となります。東京と大阪から挟撃される地域だけに浪花節的でもあり厳しい算盤勘定とゴッ |
チャにした複雑なやり取りが続きました。岐阜県は外様販社3社と専業代理店1社が主力代理店で特にフ |
ァンクーラーの大市場でした。木曽川、長良川、揖斐川の一級河川が3本岐阜県を流れて伊勢湾に注い |
でおり岐阜県全体が豊富な地下水脈に満たされた地形になっております。その為、家庭でも会社やレスト |
ラン、ホテルでもファンクーラーを使って冷房する、コスト的にも快適性からも有効だとされておりました。私 |
が担当しているときはエア・コンよりも数倍シェアーが高いのが自慢でした。商戦が一段落した10月に岐 |
阜3社(日之出電機、三栄三洋、西濃三洋)の社長を料亭に招いての報告会と番頭クラス(専務、部長クラ |
ス)と下呂温泉で反省会を実施することが恒例行事でした。現在は地盤沈下などの問題から地下水の汲 |
み上げが規制された事からエア・コンに切り替えられております。 |
昭和47年8月に次女が誕生しましたが、家内の次兄宅(札幌)の近くの病院でのお産でした。名古屋に |
は親戚も居なく結局、兄夫婦にお世話になることになり臨月に入って小牧空港から家内と長女を飛行機で |
帰す為搭乗カウンターに行くと「臨月に入った産婦には子供の保護能力が無いので別途添乗が必要だ」 |
との事です。千歳空港に義兄が迎えに来ているので何とか乗せて欲しい」「法律上できない」とやりとりして |
いると、後にいた初老の紳士が「私が保護者になっても良いよ」という申し出をいただき、お情けに甘えさ |
せて頂いきました。無事、次女誕生につながったと、あの時のご恩を忘れることは出来ず感謝に堪えない |
ところです。 |
昭和47年12月から三洋電機ポンプ機器鰍ェ設立され本社営業部(近畿、中部、北陸)名古屋販売課 |
の責任者になり新に北陸(福井、石川、富山)が名古屋販売課に統合され8県下を担当する事になりまし |
た。数年前後してガス厨房機器、空調機器、食品設備機器、自販機器、職洗機器、医療機器など業界ご |
とに分社化され各分野ごとに深耕・拡大策が推進されました。 |
当初、発表されたポンプ機器会社の役員人事は大塚社長(三洋電機専務)、木下専務(家電近畿営 |
業部長、元札幌営業所長)、谷本常務(特機名古屋営業所長)でしたが木下氏が退社(実家の福井で電 |
気店を創業)され谷本常務が実質経営責任者に就任されました。 |
年末に新しい社宅(二棟:60戸)が千種区に建設されポンプ会社の所帯持ち(3家族)は全員入居する |
ことになります。 |
全員が若かったので行動最優先で前向きな営業活動を推進しました。長野県と静岡県で専業代理店 |
ルートの開拓を進めました。既存の販売会社から本社幹部へクレームがついて頓挫した事もありましたが |
新たな足跡を少々残すことが出来たように思います。 |
昭和48年の春、課員全員(家族同伴)で徳川家康の出生地「岡崎城」に花見に行ったことがあります。 |
お城を見たあと近くの河原で持参したバーベキューセットを囲んで宴会を始めた。目の前に舞台のような |
ものがあり、気になりながらワイワイやっていると大勢の人々に囲まれる恰好になっていました。岡崎市の桜 |
祭りのイベント会場のど真ん中でやっていたのです。 |
この年は第一次オイルショックが勃発した。あらゆる資材不足と原料高騰によって製品コストの上昇を |
余儀なくされ、担当商品も価格改定(値上げ)が連続して数回実施された。品物があれば売れた。注文を |
断るのに大変苦労した。特に鋳物部品の入手が困難を極め事業部から桑名や四日市の鋳物業者に仕入 |
れに来ていたが厳しい折衝が続いた。ある専業代理店の専務は配管用の塩ビパイプが極端な品不足に |
見舞われていたことから「塩ビパイプが空から降ってくる夢をみたよ・・・」と元気なく話してた。資源の殆ど |
を海外に依存している弱点を完全にさらけ出した。 |
夏の猛暑の中、セールスとの同行営業活動は正に暑さとの闘いである。セールス車には未だカーエ |
ア・コンは搭載されてない、大きな街道で大型トラックやダンプと並走する。暑くて窓を開けていると真っ黒 |
い排気ガスが勢いよく車内に入ってくる、窓を閉めると汗がどっと出る。駐車場に停めておいた車に乗った |
瞬間、身体中が鉄板焼きにされたような熱さで悲鳴をあげる。一日に5〜6回繰り返すと著しく体力を消耗 |
していることに気づく。体力を維持するのに食酢をオカズ類に掛けて食べたり、レバー刺しなど食欲増進 |
と疲労回復方法を覚える。会社は柳橋交差点の近くにあり、仕事の帰りに60歳代の元気なオバサンがや |
っている居酒屋で同僚と良く飲んだ。安くて、美味しくて、情が厚くて本当にお世話になって金が無い時は |
付けてもくれた。一昨年30数年ぶりで名古屋に行った折にその店を捜したが一帯がビル街に変っていて |
昔のカケラも見つけられず新しい店でビールを飲んだが味気がなかった・・・・・残念な思いをしました。 |
北陸も得意先を訪問したが挨拶程度で終わってしまった感じが強い。雨の多い地域で「弁当忘れても |
傘忘れるな」の言い伝えがある。育った鶴岡と同じ雪国でもあり文化的にも少々共通する面があった。 |
北前舟の影響だろうと思ったりしました。 |
兎にも角にも日本のど出腹の市場を走り回った2年2ヶ月でした。 |
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| 次回につづく・・・ |
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| 次回は12月10日更新予定・・・ |
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