13、特機札幌営業所:販売係担当
 北海道に着任してから公私共に大変お世話にな
った方が沢山おられますが中でも仕事の先生でも
あり、私生活面での兄貴分のYHさんでした。男惚
れするほどの好男子で頭脳明晰な竹を割ったよう
な性格の九州男子でした。長崎大学(国立一期校)
商学部を出て同じ37年入社で4歳年長でしたが決
して偉らぶらないで、いつも良く教えてくれました。
酒も博打も○○○も手取り足取りマンツーマンで
身銭を切ってまで身体を張った実戦教育でした・・
今でも頭が下がります。YHさんのように格好良い
  恵庭岳登山 後は支笏湖 (後列中央)
男になりたい一心でしたが遠く及びもつきませんでした。YHさんのご努力で冷凍機の売上が急激に拡大
した昭和38年春に冷凍機販売係としてYHさんの下で担当する事になり札幌市内と函館の代理店を受け
持ちました。「注文貰うまで帰って来るな」「全額回収するまで帰って来るな」が所長の厳命で体育会系で
育った私は素直に実行する事に・・・手をかえ品を変えて粘り強く、朝駆け夜駆けの営業活動が始まり
ました。代理店(専業)は食品関連資材(材料、原料)の問屋さんで各地のアイスキャンデー屋さん、ジュ
ース屋さん、牛乳屋さん、お菓子屋さんを得意先に営業しており電機製品を本格的に販売展開する初期
の時代ですから代理店の営業マンと一緒になって市場開拓を推進して行きました。当時は殆どの町に数
件づつアイス屋さんがあり冬場に殆どの注文を頂くようになりました。支払条件を10回均等分割支払(平
均サイト:165日)を打出し月々の売上から機器代を支払って頂く方法です。アイス屋さんが一括購入(資
産機)し立地の良い小売店(雑貨店など)へ貸出て中身製品を販売していくようになり売場スペースを確保
するため大型機の導入が増えてきました。製品本体の正面や側面にオリジナルマークを新光堂で刷込ん
で発送するのですがマーク上のクレームが結構出て怒られる事がありました。
  大手乳業メーカー、ビールメーカー、飲料メーカー、菓子メーカー、食品メーカー等との取引も本社主
導でどんどん拡大していきました。その一つに北海道コカ・コーラボトリング鰍ェあります。自販機業界への
本格参入は東綿実業とのタイアップで米国コーネリウス社と技術提携して発売されたジュース用自販機(ス
トレートとコンクの2機種)が一番最初でしたが間髪を入れずコカ・コーラ専用機48タイプが発売されまし
た。YHさんと北海道コカ・コーラ本社や営業部門に製品を持込んで説明会を繰返し実施しました。重量が
結構あって2階や3階が説明会場の時は上げる時より降ろす時の方が足腰にきましたが心地よい汗だっ
たように思います。コカ・コーラの営業方針はアメリカ方式で小売店またはユーザーへの直売(最終ユーザ
ーの顔が見える営業スタイル)で札幌、函館、旭川、帯広に支社を設けて全道各地に支店、営業所を開
設し強力な販売網を構築しているところでした。一方コカ・コーラ製品はアトランタ総本社⇒ジャパンコカ・
コーラ⇒エリアボトラーへ原液が供給されてビン詰めされます。北海道コカ・コーラは大日本印刷が大株主
で経営幹部の殆どが同社からの出向で地元では伊藤組やたくぎんが出資しておりましたが爆発的なコマ
ーシャルと営業パワーには度肝を貫かされました。
  説明会から2週間位経った頃から毎日のように注文が殺到しました。一度動き出すともの凄いパワー
で、そのご急激に自販機事業の拡大が続きましたが・・・・・あのような結末は予想もつかない事でした。
旭川、北見、帯広の専業代理店も担当する事になり、月2回のローティーションで出張する事になります。
月半の売込みと月末の回収です。重いカバンを持って殆ど列車を使って早朝から深夜まで時間表を片手
に移動します。特に1月から3月が重要な営業時期でしたから駅から旅館までの歩きはシバレました。2月
の夜8時ごろ駅から旅館までの約10分間のシバレ道は今でもハッキリと思い出します。旅館に着き部屋の
ルンペンストーブに火が入っても電気(照明)が明るくならない、食事の後も寒くてストーブにしがみつくよう
に近づくと顔だけが火照って背中が窓や壁からの冷輻射でスースーして寒い。朝方、寒さで眼を覚ますと
衿布が霜で真っ白になっている・・・テレビで今朝の気温はマイナス35℃と、体感最低記録です。
名寄出張での体験でした。
  当時の本社冷凍機企画課の荒田課長は「業界TOPになる」方策を次から次へと打出してきました。二番
手三番手では満足できないという根性・執念を叩き込まれました。「負けないだけの努力をする」「商売も勝
負感を鍛えなければ負ける」ということで会議の後はマージャンで対等に勝負に付き合って頂きました。
次回につづく・・・
次回は11月20日更新予定・・・