12、独身寮「エルム荘」時代:その1
  最初の同室者は井上省三(故人)さんで二階の右側の部屋でした。大阪育ちの井上さんは明るくてサ
ービス課で無線技術を担当しておりました。頭の良い人で何でも親切に教えてくれました。寮母さんが3人
(村越さん、松村さん、菅原さん)で食事や細々した世話を良くやいてくれました。寮生にはそれぞれの大
家(名人)がいました。マージャン、スキー、野球、登山、酒、等々先輩諸氏の宜しくのご指導を得て青春
時代真っ盛りの私は遊びにも体当たりで前後見境無しで経験していきました。マージャンは最初は只マン
で矢田さん湯藤さんが懇切丁寧に教えてくれました。夜を徹して役づくり、上がり方から点数の数え方まで
心苦しくなるほど親切に指導してくれました。少し覚えて一通り出来るようになると千点10円でやるようにな
り勝ったり負けたりしているうちにレートが高くなっていきます。いわゆる「新人カモ養成所」を開設されてい
たわけです。寮の1階の奥には休養室(畳の大広間)があり、休日前夜から三卓ぐらいは開帳していて実
力別のランクがついていました。Aランクは千点が100円、Bランクが50円、Cランクは10〜20円でギャラリー
も集まって2抜け3抜けしながら殆どが徹マンでした。徐々にランクを上げてチャレンジして行きますが、さ
すがにAランクは百戦錬磨の雀士ばかりで最後にはしっかり稼がれておりました。各々の雀風があって先
走り痩せ馬タイプ、先行逃切りタイプ、大物狙一発逆転タイプ、夜明方復活タイプ、ラスマン爆発タイプ
等々。飲屋のツケ、麻雀のツケの支払で給料・ボーナス・石炭手当が貰ったその日に無くなりました。昼飯
代も事欠き会社で昼時間になると3階の販促倉庫で寝ていました。昼抜きです。早目に寮に帰って夕食を
腹一杯食べ、朝また詰め込んで出勤する一日二食生活が続きました。
  家族寮の子供達が3〜4人で中庭に遊びに来ます。キャッチボールやサッカーの相手になり鍛えてお
りましたが彼等も45歳位になってますね。人生順繰り順繰りです。お盆になったら皆からカンパして小規
模の花火大会をやったり楽しかった思い出ばかりです。
  大変困った事もありました。風呂に入って毛ジラミをうつされた時です。犯人は判っておりますが湯船
で股間をゴシゴシ掻いている人と一緒になったのが不幸の始まりでした。次の日からカユクテ言葉に言い
尽くせない痒さたまりかねて皮膚科に行ったら股間を全部剃られて銀軟膏を塗られました。数日で完治し
ましたが、それから風呂に入る事が怖くなったことは確かです。
  三上さんご夫婦が寮に来られてからは食事のメニューがグレードアップしました。三上さんは若い時に
札幌グランドホテルの料理長を務めた方です。限られた予算で良くあれだけ食欲をそそるメニューを用
意・調理してくれたと改めて感謝しております。自家製のソースや各種の漬物なども加わって料理で溢れ
ておりました。
  健康でやってこれたのも美味しい食事を一杯つくってくれた皆様のお陰です。
  独身寮「エルム荘」時代:その2
  元旦、スキー部全員がスキー用品を担いで
木下所長宅に年賀訪問するのが恒例行事でお
神酒を頂いた後に札幌駅へ移動しSL列車で倶
知安駅へ、五色温泉で一泊します。すぐ傍に格
好の小山があり初心者を中心に特訓が始まりま
す。直滑降と止まり方がポイントで怪我を防止す
る為にも徹底的に指導をうけます「スピードが出
て止まれないと思ったら全身に力を入れて(身体
  独身時代 (ニセコでスキー) (写真をクリック拡大)・・・・・
をピーンと張って)横に思い切り転べ」が絶対命令でした。「クニャクニャ転ぶと怪我をする」ということで何
回も転ぶ練習です。新雪でキチント転べるようにならなかったら1,308mのニセコアンヌプリの山頂越えは
危険が一杯ということで真剣に転ぶ練習です。上手な人はボーゲンとかクリスチャニアとか格好よくスイスイ
と差をつけて滑りまくっていました。山の家には大きな露天風呂があって入浴が最大の楽しみでした。食事
は自炊でカレーライスと豚汁が定番でしたが、酒を飲みながらワイワイガヤガヤの会食は特別楽しかった。
ある年の豚汁は独特のダシが効いて皆が美味しい美味いと食べていると「温泉が隠し味」との事で・・・・・
途端に複雑な味がしたようでした。リーダーは学生時代に大倉シャンツェで飛んでいたという岩井さんを
筆頭に村山さん藤本さんなどのベテラン勢です。五色温泉側から山頂を目指し反対側の比羅夫側に降り
るルートプランでした。出発前スキーの裏側にアザラシの毛皮で作ったシールを貼り付けます。途中で外
れたりすると事故に結び付くこともあり念入りにしっかり固定してからベテランが点検して補強してくれる。
ベテランが先導して新雪をラッセルしながらジクザク登坂して行く。雪質は膝まで埋まる新雪は軽いが、
風邪の当たる斜面はアイスバーンで滑落の危険もありました。
山の天気はあっという間に変ります。一寸先も見えないような吹雪の中の行進はゴーグルをコスリながら
「八甲田山 死の彷徨」を思い出し、真っ青な快晴の中ではトニーザイラーの「白銀は招くよ」を連想させる
大自然の美しさと怖さを思いっ切り堪能させられた。
  頂上でシールを外し肩からタスキかけで身体に縛り付けて、緊張感が高まるが声にならないでうなずき
あって確認する。頂上から幾つもの沢に分かれていて一つ沢を間違えると遭難につながる。リーダーから
スピードがつき過ぎて危ないと思ったら力を入れて転べと最後の指示がありグループ毎に吹雪の中に消え
て行く。山頂付近は立木も無くスピードがつき過ぎて転び、中腹近くになると立木との衝突防止の為に転
ぶといったことでゲレンデまで4〜5回は転びながらやっと辿り着く。新雪の中での転倒は身体ごと雪の中
に、前後左右が判らない状態でモガイテいると先輩がやってきて「どうした」と言って助けてくれた。その都
度、涙が出るぐらい有難いと思った。リフトの最上部まで降りて来て一安心したのも束の間、上から見たゲ
レンデはギャップだらけの急勾配にギャフン。可笑しな話だが自信の無いスキーヤーはリフトに乗って下ま
で降りて行く事になり係員が丁重に対応していた。斜滑降を何回も繰り返し下半身がガダガダになりながら
平地まで命懸けで辿り着く。途中の絶壁をもの凄いスピードでスイスイ滑降していく子供達がいた。無理し
て真似てみたらギャップで身体ごとぶっ飛ばされてしまった。山小屋での食事(酒宴)や談笑は夜遅くまで
続いたが、吹雪の日はマージャンで時を過ごした。
  ニセコの他にも十勝岳、無意根山、春香山など毎週のように出掛けた。会社もクラブ活動の支援策とし
てマスターラインを貸してくれました。藻岩山のゲレンデの端に岩井さんが小さいジャンプ台を作って格好
良く得意気に飛んで見せた。少し滑れるようになっていた私はチャレンジした。飛んで立ったまでは良か
ったが前方の雪山にスキー毎突っ込んで身体ごと倒れた瞬間、ゴキッと鈍い音がした。一人で起きれない
でいると岩井さんが助けに来てくれた。痛い・歩けない、救急車で整形外科へ・・・右足首の複雑ネンザで
した。この時は山本所長にヒドク怒られました。サッカーで両足とも何度かネンザをしたことがあったが、ス
キーのネンザの衝撃は段違いに大きかった。これ以降、スキー道具を処分してスッキリと止めた・・・いまで
も冬山を見ると懐かしさが噴き出す・・・・・。
  独身寮「エルム荘」時代:その3
  初めて札幌の事務所に着くと総務課の黒川さん(故人)がやって来て、ニコッと笑って「野球やるか」と
聞いたので「少しは・・・・・」と答えると野球部への入部が決まった。その頃、男子新入社員は全員入部が
原則でした。リーダーは黒川さんと鶴田さんでノンプロ級の名プレーヤーが多かった。監督が家電企画課
長で実力者との事でした。野球部の活動は、「朝野球大会」「くれない野球大会」「電機メーカー対抗野球
大会」「販売会社野球大会」への出場が主で予定の無い時は自衛隊との練習試合が多かったように思い
ます。
  「朝野球」は朝4時起床、5時から試合、7時に寮に戻ってシャワーを浴びて朝食を頂いて通常通り出
勤です。「くれない野球」の試合日は監督命令で野球部員だけ早退し、夫々グランドに集合しユニフォー
ムに着替えて試合です。草野球といえども結構レベルが高かった。それというのも黒川さん、鶴田さん、
泉田さんたちは高校時代に活躍した方々で練習にも熱が入っておりました。寮の近くの緑ヶ丘小学校や
啓明中学校のグランドでウィークデーの早朝でもやりました。前の晩に出張で帰りが遅かったり、すすき野
で深酔いして二日酔い気味の時などはサボルため鍵を掛けて居留守をつかって寝ていると起きるまでバ
ットでドアを叩かれ、根負けして練習に駆り出されました。
特にメーカー対抗野球大会が近くなると練習も多くなりました。優勝することがチームの使命で後発の当社
にとって大変意義深いものでした。日立・東芝・三菱・松下・早川・ソニーなど強力チームが相手でしたが
気合負けはせずに熱戦の末、何回も優勝しました。優勝すると所長宅に優勝旗を持参し優勝の報告をし
ます。所長は喜んで金一封を弾んでくれました。エルム荘の中庭で優勝旗を飾って祝賀会を夜遅くまで
やるのが恒例でした。残念ながら負けても反省会と称してやりました。皆さん元気一杯でした・・・・・活躍し
た諸兄も70歳前後になりました。
  販社対抗野球大会では旭川との決勝戦が多かったと思います。松浦投手と藤井捕手(故人)の名コン
ビを中心に良くまとまったチームで大西専務が監督で打倒営業所(札幌)に燃えておりました。
私も相手チームによって色んなポジションをやりましたがキャッチャーは面白かったです。ホームランも打
ちましたが三振もかなりとられました。絶対に三振はしない・・・・・ミートの上手な人がいました。長尾さん(故
人)です。
  特機でもS39年から代理店対抗野球大会を開催することになります。確か平成10年まで続きましたが
第一回優勝は函館の椛蜥ホ商会で私の担当代理店でした。名試合が数多くありましたが一日で優勝する
まで4試合投げ続けることになり素晴らしい投手も肩を痛めてしまう事もありました。黒川さんには初回から
最後まで審判長として試合進行を仕切って頂き本当にお世話になりました。
  今、緑ヶ丘小学校5年生の孫が少年野球でピッチャーをやっています。たまに試合の応援とキャッチボ
ールの相手をしながら当時を懐かしんでいますが・・・・・もう肩も足腰もいうことをきかないようです。
次回につづく・・・
次回は11月10日更新予定・・・