7、高校時代「山形県立鶴岡工業高校:鶴工サッカー部」
  兄が卒業して入替わりに入学した電気通信科は戦後開設された一番新しい専門科で一般に弱電と呼
ばれておりましたが正直なところ自分で選んだというよりも兄が出たところに行くんだという気持ちが強かっ
たように思います。
  入学式の数日前に学校の下見に行ったところ
グランドで野球部・サッカー部が練習をやっていま
した。当然サッカー部の練習を見ていると、どこか
で見慣れた奴が走り回っているのに気がつきまし
た。中学時代のライバルで大山中学のN、K、S
や櫛引中学のT達でした。入学前に何故という感
じでしたが、夫々の中学の先輩や鶴工OBが誘っ
て入学前の仮入部となったようです。私も遅れを
  高校時代 修学旅行 神戸港 右端 (写真をクリック拡大)・・
とった気持ちで仮入部して練習に参加するようになりました。
  鶴工サッカー部は全国大会に何回も出場して天覧試合や上位入賞を果した伝統ある部でOBの自慢
話を良く聞かされ全国大会出場を目指して厳しい練習に耐えて行く事になります。私の高校時代は勉強
よりもサッカー部活動が最優先でした。部長は本間源次郎先生で広島大学で選手だった元気一杯のあ
だ名が「クロパン」、保健体育の担当で在校中は本当にお世話になりました。
  春休みと夏休みの合宿、毎日(土・日も)雨の日も雪の日も走り回りボールを蹴っておりました。週1回
は10km程のランニングでグランドから外に出て走ります。コースの途中にある女子高(北高、家政高)の
横で必ず掛声をあげます「鶴工ファイトオス・ファイトオス・ファイトオス」。前方に女子学生の集団が歩いて
いても擦違いざまにファイトオスをやります。男ばかりの世界ですから掛声で発散していたのでしょうか。
冬、雪が積もっても走りました。体中ベチャベチャになりながら、汗だくになりながら城跡の小山でのダッシ
ュは顎を出した所です。帰省の折に訪れてニヤニヤ若き日の佳き思い出にひたっています。サッカーは
手以外は体の全てを使って競技しますが体でぶつかり合う場面が一杯あります。ドリブルで突進して来る
フォワードは体を張って喰い止める、空中戦のヘディングはヒジテツやケタグリを受けます。立派な格闘
技の一種です。足首の捻挫は両足とも何度もやりましたし小石の混ざったヤスリ状のグランドですから常
時生傷だらけでした。雨の日に良く来るOBがいました。サッカーは雨でも雪でも試合があります。グランド
に水が溜まるとボールがスリップしたりブレーキになったりコントロールが難しくなるのですがヘディングも
ボールが重くなった分衝撃が強くなりかなり堪えます。それを承知でOBがニタニタ笑ながら鍛えに来る
のです。ボールの表面に隙間が無いくらい泥を一杯塗付けて3m位の至近距離から思いっ切り投げ込ん
できます。一瞬でも目を離すと脳天を直撃して気絶するぐらいの衝撃です。頭から足の先までドロドロにな
るまでやられました。
  お陰で1年生の後半にはレギュラーになり3年生の時には県下に
敵は無く東北大会の有力校になっておりました。先輩の愛のムチと
猛練習のお陰で昭和36年(3年生)の秋田国体に東北代表(東北6
県で2校)で出場しました。秋晴れの開会式では紅花色のユニフォ
ームを着て昭和天皇・皇后陛下の前を挙手行進し、にこやかに笑み
をたたえた皇后陛下のお姿が今でもハッキリと焼き付いております。
丁度、行進中の模様をNHKテレビが私達をアップして放映し、丁度
家族も見ていて「均がいる」と大変喜んでくれたようです。宿舎は試合
会場の近くの材木商(旧家)に民泊でご家族と近所の主婦が食事や
洗濯など心温まるお世話をして頂きました。古くから地元に伝わる唄
や踊りなども披露してくれたり地域挙げてのお持て成しに感動しまし
た。
  高校時代 (写真をクリック拡大)
  試合は一回戦が関東地区代表の神奈川第一高校で激戦の末、同点で延長戦になり延長の後半にや
っと1点を取りやっとのおもいで勝ちましたが全員負傷だらけの勝利でした。二回戦は中国地区代表の名
門、修道高校で優勝候補でした。土砂降りの中、泥んこ状態のグランドで先輩に鍛えられた雨中特訓を発
揮して押されながらも前半は0−0で互角、しかし後半に見事なコンビネーションで1点取られるとバタバタ
と入れられて結果4−0で完敗しました。
  予想通り広島修道高校が優勝し、我々は優勝校に2回戦で負けたことになります。同大会にはメキシコ
オリンピックで銀メダルを取ったメンバーが結構出ておりました。京都山城高校からのストライカー釜本は
二周り位大きな男で当時からユースで活躍をしておりました。
  合宿には中央大学、東京教育大学、法政大学から毎回2名(4年生と2年生のバリバリの現役)来てくれ
て最先端のサッカーを指導してくれました。合宿所に布団、衣類、米、オカズ(現金)をリヤカーで持込み
炊事当番を決めて始まりです。朝食前の柔軟体操(体の硬い自分は毎回悲鳴の連続でした)、ランニング
午前中はキック、ドリブル、パス等の基本的な練習。午後はコンビネーションを主体とした実戦モードの練
習です。夕食後、真暗いグランドでドリブルの練習、ボールがまともに見えませんが足とボールが絡み合う
ように足先の感覚を頼りに体が反応するようになるいわゆる「身体で覚えろ」の一例です。炎天下の練習は
暑さとの闘いでした。最後には汗が出なくなり汚れたシャツの表面が白くなります。塩が噴出し嘗めるとかな
りショッパカッタです。そこでまた汗を拭い塩分が濃縮されて目がヒリヒリと痛くなり真っ赤になりました。
今は試合中でも練習中でも水分補給が当り前ですが当時は途中で水を飲むと身体に悪いということで一
切出来ませんでした。その代わり練習が終わると一斉に水飲み場までダッシュして3年生から順に大きな
蛇口に口を当てて腹一杯ゴクゴク飲みました。まとめて一気に水分補給すると胃腸に良くなかったようで
合宿の中頃には殆どが食欲不振になりバテてきます。それでも練習は続き体力と根性を鍛えられていき
ました。
  中央大学の遠征チームと試合をやった事がありました。結果は負けましたがかなりの善戦で一点もの
のシュートを数度クリヤーした時には観客から大歓声があがりました。あのプレーで自信がついたのは確
かでした。
  秋田商業は東北一の伝統校で夏井という名フォワードがいてユースで活躍していた選手です。彼の
ドリブルを阻止するため激しくぶつかり合いました。東北No.1の秋商には勝てなかったですが、現在秋田
No.1の西目高には勝ってました。東北各地に遠征して主要大会に出場しておりました。井の中の蛙が少
しづつ世の中が見えてきた頃です。
  就職決定まで
  勉強では兄と良く比較されました。数学の先生に「微分・積分は兄貴は得意だった。実弟のお前は何
で判らないのか」と口癖のように言われました。学力テストも期末テストも一夜漬けのテスト本番で何とか乗
り切りましたが学級では中ぐらいで多少の上下はありましたが兄よりはかなり下回っておりました。
  専門科はラジオ・テレビ・電話などの通信関係、コンピューター・自動制御などの情報処理関係、半導
体・電気部品の電子機器関係に大別されてその殆どがアナログです。2年生の成績順位から就職先が決
まっていったと思います。もともと勉強は好きでなく早く卒業して稼いで大人の世界に憧れておりました。
3年生になると進学組(国立大学や東京電機大学などの専門校)と就職組に分かれて、5月位から電機メ
ーカー、放送局、各公社などにほぼ成績順に決まっていきました。私ははっきりした志望は無く担任の先
生に全てお任せで毎日サッカー漬けでしたが7月頃に先生から呼ばれて今度、東京三洋電機から募集に
来るので受けてみないかという事です。私の記憶では初めて聞く社名でしたが先生は将来が期待出来る
のでどうだということです。判りましたということで夏合宿中に面接し、1ヶ月程で内定を頂きました。当時、
鶴岡の電器屋さんは三菱、東芝、日立、松下が殆どで三洋、シャープ、ソニーなどはまだ名前が通ってな
い時代です。私の家族も親戚もどんな会社なんだろうという感じでした。
  当時の就職先は70〜80%が東・名・阪で特に東京周辺に集中しておりました。私も同様に故郷を離
れて就職する事に何の抵抗も無く当り前の事だと思っておりました。親も兄が地元に就職できたので次男
以降は他所に出て行くものだと考えていたようですが母は出来れば地元に就職させたかったようですが
父に諭されておったようです。会社からパンフレットや社内報が送られてきて、だんだんと会社の内容が
判って来ました。親会社が三洋電機鰍ナ大阪の企業であることや規模の大きさや鶴岡より田舎(大泉町)
にあることです。
  母は「上方の会社は人使いが荒い」と誰かに聞いてきて初めて手放す息子の先行きを案じておりまし
たが新しい寝具とか日用品等を揃えて布団袋と柳行李に入れて旅だちの支度を整えてくれました。卒業
式が終わると毎日のように夜行列車で旅立って行きました。ホームで校歌を斉唱して送り出すのですが徐
々に人数が少なくなり私が4月7日の夜行で出発する時には殆どを送り出した後で家族の方が多かったよ
うです。母はホームで最後に「天職だと思って、体に気をつけてのー」と手を握ってくれました。サッカー
部の厳しい練習を思えば他所の苦労は辛抱できると思っていましたから「うん」と答えました。同じ列車で
酒田出身の佐藤君(機械課)と一緒に向かいました。暫らくデッキで外の点々と見える灯りを虚ろなな目で
想い出にふけっていたようです。
次回につづく・・・
次回は9月20日更新予定・・・