6、中学校時代・我が家の食卓:その2
  家から田圃道づたいに約30分ほど歩いた所に鶴岡市立第三中学校があり、入学と同時に野球部に入
りました。当時でも結構部員が多く毎日球拾いです。困ったことにグローブ、スパイク、ユニフォームなどの
用品は個人調達でした。親に強請っても無理なことが判っており野球部は諦めました。友達の多くは家業
の手伝いとかアルバイトをして多少なりとも生活の足しになっていました。私も何か稼げる事がないか探し
ていたら近所の友達がやっていた山形新聞の配達員(新聞少年)の仕事が友達を介して見付かりました。
最初は夕刊からで、夏場は夕暮れまで配達できるのですが秋から冬にかけては真っ暗になってからのスタ
ートで街灯もあまり無かった時代ですから墓場の近くとか火葬場の近くは怖かったです。また大きな屋敷で
門から玄関まで奥まった家も大嫌いでした。夕刊より朝刊の方が手間賃が少々高かったので何ヶ月かやり
ましたが今度は早起きが大変でした。何時に起きて何時に終わったかはっきり覚えておりませんが「ばば
はん」が目覚し役で上手に起してくれました。眠い目をこすりながら集配所まで自転車で行き自分の担当
部数にチラシを折込んでスタートです。何枚かのチラシを上手に折込むのもテクニックです。配達を終え
て家に戻ると朝飯で納豆やトロロで丼飯をかき込んで登校です。アルバイト代は全て母親に渡したと思い
ます。
  二年生になると友達に蹴球部(サッカー)に入
らないかと強く誘われ入部しました。野球と違って
道具代が殆ど掛かりません。パンツにランニング
シャツ、ズック靴でOKです。当時サッカーがこん
なに盛上るなんて想像出来なかったマイナーな
スポーツでしたが師範学校で選手だった長南先
生が基本をしっかり教えてくれて楽しいクラブ活
動でした。直ぐに正選手になり3年生では地区
大会で優勝か準優勝してました。
  中学校 サッカー部 (前列左から4人目) (写真をクリック拡大)・・・
  一番のライバルが大山中学で連中とは高校で一緒にやることになります。アルバイトは高校受験真近
まで続けていたと思います。勉強はそこそこでしたが音楽は30点、図工は100点、他は80点というところ
でクラスでは上の方でした。進学は迷いなく兄が進んだ道を目指しました。山形県立鶴岡工業高校の電機
通信科です。一番競争率の高い科でした。私が受験勉強の時に兄はNHK鶴岡放送局に就職が決まり、
受験勉強のフォローをしっかりやってくれました。お陰で入学試験、色盲検査も通り入学することになります。
この入試で音楽のテストが生涯で一番点数が良かった(70点以上)と思います。高校受験に失敗すると当
時は私立高校が無かった事から高校予備校へ通って翌年に再チャレンジする事になります。電機通信科
には予備校から入ってくる割合が3割位ありました。
  通学路の近くには水田の用水路が整備されておりました。冬になると川魚(特に鮒)が川草の中で冬眠
状態で静止している時期があります。学校帰りに腕まくりして氷水に手を入れて寒鮒獲りをやりました。
結構大型の鮒を手掴みで興奮しながら獲ってました。冬場の貴重な蛋白質、晩ご飯のオカズになっており
ました。
  農家の同級生も沢山おりました。田植えの時期はサツキ休みで遊びに行くと大きな屋敷に池があって
食用の鯉を飼っていました。野菜のクズや調理残渣などが餌で40cm位の鯉を貰って来た事もありました。
近隣の農家は戦後の農地解放と協同組合の発展や農業機械の普及等から目覚しい近代化に向けて動き
出しておりました。
  我が家の食卓:その2
  子供の頃は丸飯台でしたが中学頃から四角(長方形テーブル)飯台に変りました。台所から飯台まで
食器やオヒツ、味噌汁、おかず等を運んで準備するのが子供達の役目でした。釜戸でのご飯炊きをばば
はんに教わって何回か炊いたことがあります。米とぎ、水たしから一連の作業で釜戸に徳用マッチで火を
入れて暫らくするとご飯が煮えてきた匂いがしてきて分厚い蓋からブクブクと泡がたちます。その時に火
力を強くしてやるのがコツで後は火力を抑えて蒸すようにします。最高の出来は薄っすらとオコゲが付く
位です。良くオコゲを取り合って食べたものです。最悪はメッコメシで芯が残っているような生蒸し状態。
後は水加減でやわらか過ぎたり、オコゲが多すぎたりでしたがオコゲの握り飯はもの凄く美味しかった、
釜戸のご飯が懐かしいです。
  母がいない時は兄か私がご飯の用意をしました。見よう見まねで何とか喰えれば良いという事で味噌汁、
肉うどん等つくって弟達と食べましたが饂飩で大失敗した事があります。干し饂飩を茹でて肉饂飩にする
つもりでしたが沸騰した鍋にささっと入れて蓋をして泡が噴いてきたら2〜3回足し水をして麺の硬さ具合
をみるのですが麺が表面に浮いてこないので可笑しいと思って鍋底をさらうとダンゴ状に固まっているので
す。最初のチャレンジは完全に失敗でした。原因は鍋に饂飩を入れる時に出来るだけバラバラに入れて
直ぐにかき混ぜる事をしてなかったからです。今でもダンゴ状の肉饂飩を食べさせられた弟達が酒を飲む
と「均あんちゃにダンゴ饂飩を喰わされた」と酒の肴に持出して笑っております。山海の食材が豊富で四季
折々の旬のメニューがあったようで、カルシウムやビタミン等の栄養補給源がうまく繋がっていたと思います。
なかでも冬は魚屋の店先にグロテスクな鮫がガンクビを並べて睨んでいました。身は独特の匂いがあるの
で一度炙ってから甘辛く煮込んで食べておりました。卵はオムレツにして。鯨やニシン等も美味しかった・・・
食べれるものは何でも美味しかった、嫌いなものは無かったです。
  今でも帰省したら必ず食べるのが日本海で獲れた「口細かれいの炭火焼き」です。淡白な味ですが醤
油をさっとかけて縁側が特に美味しいのです。母が健在の時に帰省すると、たまにしか帰ってこない息子
に食べさせたくてテーブル一杯に料理をつくって出してくれる。カツ、ハンバーグ、卵料理など子供の頃に
食べれなかった物が多いのです。
  私は子供の頃に食べたお袋料理が懐かしくって要求するですが母としたら子供の頃に十分喰わせられ
なかった肉等を腹一杯喰って欲しかったのかも知れません。ご飯と味噌汁と漬物と口細カレイがあれば大
満足なのに・・・面白い親子の場面でした。
次回につづく・・・
次回は9月10日更新予定・・・