| |
| 5、小学校時代・我が家の食卓:その1 |
| |
| | 物資不足の昭和25年4月に鶴岡市立朝揚第 |
| 二小学校に入学した。鞄、教科書、文房具類は |
| 勿論のこと頭の先からつま先までの衣類の殆どが |
| 兄の御下がりでした。特に教科書は町内で上級 |
| 生から下級生に融通しあっておりました。特に頭 |
| の良い人ほど表紙を掛けて大事に使って新品同 |
| 様で譲ってくれました。 |
| 1年から3年までの担任がヒステリックな女先生 |
| でした。勉強嫌いで物分りが悪くて遊んでばかり |
| の悪餓鬼でしたからスパルタ教育の標的でした。 |
| 小学校 海浜学校 (前列右から二人目) (写真をクリック拡大) |
| 机にオデコをごつん、柱に後頭をごっつんとやられました。痛さよりも皆の前でまた恥をかいたと子供心に |
| 悔しさを感じましたが、お陰様で打たれ強くなったようです。「鉄は熱いうちに打て」「理屈でなく身体で覚え |
| させろ」を実践して頂いた先生に感謝しております。 |
| 幼少の時分からすごいオンチでした。声を出して皆についていこうとするのですが、どんどん音程がづ |
| れていくのです。学芸会の合唱を練習をしている時、とうとう先生に「安達が声を出すと周りの生徒まで狂 |
| ってしまうから歌うな」と言われ一人で3年生の席に取り残された事がありました。三つ上の兄は歌が上手で |
| NHK鶴岡放送局の少年合唱団に入っており6年生の合唱では指揮者となってタクトを振るぐらいで、同じ |
| 兄弟で何故こんなに違うのか当の本人が不思議に思っておりました。人前で歌うのは嫌いでしたが聴くのは |
| 好きでした。兄達は祖母と一緒に寝ている時に学校で習った歌を唄ってくれたそうで、長兄は「鞠と殿様」 |
| 次兄は「みかんの花咲く丘」を何回も聴かせたけど私は何も歌えず逆に祖母が兄が歌った唄を教えてくれ |
| ました。いま洋友会のカラオケ倶楽部で唄っているのが不思議なくらいです。あの世で祖母が聴いてくれて |
| いるかな・・。4年のクラス替えを機に勉強にもスポーツにも少々ながら進んで参加する様になりました。 |
| 特に町内会対抗少年野球大会は町内の青年団の3〜4人が熱心に世話・指導してくれました。内・外 |
| 野、投手、捕手なんでもやりました。試合日の昼はジャムパンと牛乳の差入れがあり、全試合が終わった夕 |
| 方には婦人会のおばさん達がお地蔵さんの境内で肉うどんを腹一杯食べさせてくれました。あの味と満腹 |
| 感は忘れられません。秋には市内4小学校の野球大会があり代表選手で出場しましたが結果はあまり覚え |
| ておりません。父がちょこちょこ来ては木の陰から観ていたそうです。同級生の家に良く遊びに行きました。 |
| 自分の家より大きくて立派な商家で、遊ぶ玩具やオヤツが目当てで随分とお世話を掛けたように思ってお |
| ります。小学校5・6年の海浜学校は想い出に残ります。由良海水浴場の民宿に2泊3日、米持参で雑魚寝 |
| でした。泳ぎには自信がある方でしたのでハリキッテ日本海の荒波に潜ったり飛込んだり海水を飲込んだり |
| コブラカエリになったりクラゲに刺されたりでしたが最終日の白山島から浜までの遠泳が記憶に残っており |
| ます。手漕ぎ船が先導して先生の掛け声に合わせて平泳ぎでペースを保ちながら約2Kmを泳ぎ切った時 |
| の達成感は抜群でした。 |
| |
| 我が家の食卓:その1 |
| |
| 育ち盛りの子供達にはライスカレーが最高の食事で親父特製のカレーは格別でした。父は郵便局に入 |
| る前にお菓子屋や料理屋で修行をしたことがあったそうで、母が言うには食べ物には煩かったそうです。 |
| 親父は肉屋から豚の脂身を格安で買ってきてはラードをつくってカレーの素にしておりました。昔の西洋 |
| 皿で4〜5杯たいらげて満腹感たっぷり、まともに噛みもしないで胃に流し込む感じで今日何杯食べた・・が |
| 自慢でした。弟が負けずに食べて喰い溜りを起して具合が悪くなったり思えば良くも黙って食べさせてくれた |
| ものだと思います。いま孫が同じような食べ方をしています。自分の事は棚に上げて「良く噛んで食べなさい」 |
| なんて言っている自分が可笑しくなります。 |
| 正月の雑煮を何個食べたかを自慢にしていました。丸餅1ケでご飯茶碗1杯分の量になるそうで最高で |
| 7〜8個食べた記憶があります。友達に言うときは1〜2個プラスして自慢しあったものです。 |
| ばばはんは砂糖を一杯入れた舌が蕩けるぐらい甘い餡ころ餅が大好きで甘いものを食べると便通が良くな |
| ると言って砂糖飴も良く嘗めていました。甘辛両刀の遺伝子は私にも引き継がれているような気がします。 |
| |
| 庄内地方は柿の産地で甘柿や渋柿が形の似かよった色々な種類がありました。柿色になる前の緑色で |
| も中身が胡麻を振り掛けたように甘みの強いものから、外見どう見ても甘柿だと思ってガブッとかじると口中 |
| が麻痺する位の渋味で飛上ったりで、特に友達と通学路沿いの柿(他人の)を狙って頂戴したり、見つかっ |
| て逃げ帰ったりでした。家にも庄内柿があり35度の焼酎でさわしていました。余った柿は皮を剥き干柿にし |
| て軒下に吊るし甘味に変ってくるのですが明日は食べれそうだと楽しみにしていると無くなっている。誰かが |
| 少々の渋さを我慢して失敬した。兄弟の生存競争が激しかったのか。高校時代に誰もいない台所で35度 |
| の焼酎をお茶碗でぐいっとやったら目の前がぐらっときて寝てしまった。親父が後で一升瓶を頭を傾げなが |
| ら見ていたことを思い出します。 |
| |
| 隣近所とのお付合いは親戚以上でした。ぼた餅、混ぜご飯などをつくったら近所にお裾分けするのが |
| 常でした。配達するのが子供の役目で全部配達が終わったら自分達の食い分が少ししか残ってなかったり |
| してガックリの場面もありました。夜、近所の主婦が集まって無尽をやってました。近所同士が助け合い、や |
| り繰りしながら少ない資源をもったいない・もったいないと賢く使って生きてきたのですね・・・懐かしいです。 |
| |
| 次回につづく・・・ |
| |
| 次回は8月30日更新予定・・・ |
| |
| |
| |