故郷・信州安曇野を想う
                    上原悦多(67歳)
近頃、無性に故郷が恋しくなることがある。
私の故郷は長野県の安曇野と呼ばれるところで、高校生活を終えるまでここで過ごしました。安曇野の中でも、特に穂高町の周辺は上高地の方から 流れてくる梓川(あずさがわ)等の影響で湧水が豊富なため、ワサビの栽培が昔から盛んです。特に「大王わさび農場」が有名で、近くの「水車小屋のある風景」と共によくテレビでも放映されています。私の生まれたところは、現在の安曇野市と北隣りの大町市に挟まれた池田町で、実家は古くからの農家です。本家から分家したのが宝暦年間(1751〜1764)と云いますから、現在家をついでいる兄貴で九代目ですが、少なくとも250年は経っていることになります。私が大学一年の時に初めて家を建て替えましたので、昔の茅葺の家は少なくとも200年以上の風雪に耐えていたことになります。
今でも無性になつかしく、時々思い出されるのが小さい頃、5〜6歳から小学校時代にかけて年に1〜2回、母親の実家を訪れた時の事です。母親の実家は、私の生まれた村から西に高瀬川をはさんだ隣村で、松川村と云います。たまたま、この村は、昨年7月31日に厚生労働省が公表した「2010年市区町村別生命表」で、男性の平均寿命が82.2歳で日本一になり注目された村です。もっともこれからは平均寿命よりも健康寿命かと思いますが。
母親の実家も農家で、稲作の他に「りんご」や「ぶどう」も栽培しており、帰りにはそれをいただいて、小さいながらもリュックサックに背負って歩いたものです。同行者は母親と二人の兄達です。当時はマイカーなどほとんど見られない時代ですから、いつでも歩きです。この母親の実家に行くのには途中で高瀬川を渡り、(近くに橋が無かったので、河原の中を横切るのだが) 片道4〜5kmはあったかと思います。家を出て1km程歩くと「高瀬川」にぶつかります。今はこの辺は一面水田地帯ですが、昔は川の手前100m〜200mくらいが松林になっており、秋にはさまざまな「きのこ」が採れました。きのこと言えば、私が小学4〜5年の頃母親の実家の近くに住んでいた叔父さんが大きなバケツ一杯の松茸を持ってきてくれました。それを自家製の味噌で味噌漬けにして、何カ月も弁当のおかずにして食べたことを思い出します。弁当のふたを開けると何とも言われぬ良い香りがしたものです。今ではこの西山周辺ではさっぱり採れなくなったそうですが。
話を戻しまして、道路の端は天然の芝生になっており、春には、やわらかい日差しの中に「ちごちご」の花がよく咲いておりました。濃い赤紫の小さな花で、とてもかわいい花です。最近は実家に帰ってもそれらしき花はさっぱり目につかなくなって、今ではもう無くなったものと思っていたのですが、昨年の春(4/23)、起床前にラジオを聞いていたところ、お客さんの声で「土手に翁草(おきなぐさ)が咲きました。昔は道端に良く咲いていたものですが、最近はあまり見なくなりました。信州にもやっと遅い春がやってきました。・・・」続けて聞いていると、お客さんは長野県の安曇野市に居住している70代の女性の方でした。それであまりの懐かしさに調べてみると、早春の花:翁草(おきなぐさ)―― 安曇野の一部の地域では、これを「ちごちご」と呼ぶ。―― とありました。数は少なくなったようですが、故郷に今でも咲いていることを知りほっとしたものです。同様にその頃の道端ではあっちこっちで紫色のちいさなすみれの花もかわいく咲いていたものです。安曇野と云うのは、この安曇野市・池田町・松川村・そして大町の一部を指して言います。
高瀬川は、北アルプスの槍ヶ岳周辺に源を発し、細長い安曇野の盆地を南流し安曇野市明科にて犀川(さいがわ)と合流します。この犀川は、長野市で千曲川(小諸なる古城のほとり・・・島崎藤村)と合流、この千曲川が新潟県では信濃川と呼ばれて日本海に注ぎます。又、この犀川の上流部は、梓川と呼ばれ上高地方面より流れてきます。室生犀星の金沢市内を流れる犀川とは違います。高瀬川も昔はよく氾濫して大変でしたが、今では上流より高瀬ダム・七倉ダム・大町ダムと三つの大きなダムが出来て水害の心配はなくなりました。逆に、これらのダムにより地下水の水位が下がり、私の実家の井戸も最近は夏でも水が枯れているような状況です。
私が小学三年の時に学校にプールが出来たのですが、それまではこの高瀬川が我々子供たちの大いなる遊び場でした。夏は水泳・魚とり、春・秋も含めて、砂鉄を集めたり、石の裂け目に出来た水晶を拾ったり、火打ち石を探したりとよく遊んだものです。水は澄んで魚も多く、砂も白く、石は花崗岩の硬くて丸いものが多く、河原の中も見事な眺めで、特に夏はまぶしいくらいの美しさでした。
実家の庭からの眺望 北アルプス連峰

次に山の話ですが、晴れた夜などに外に出て家の庭から西山(北アルプス)を眺めると、真西に信濃富士と呼ばれる有明山(ありあけざん)があり、頂上すぐ近くの稜線がピカピカと光っているのが見えます。これが燕岳(つばくろだけ)(標高2,763m)の山小屋・燕山荘(えんざんそう)の明かりです。燕岳は我々も小学五年の時に学校登山で登り、燕山荘にもお世話になりました。美しい山です。この山は、中房温泉が登山口で大天井岳を経て槍ヶ岳へ向かう表銀座コースの始点でもあり、高山植物・コマクサの群生も見事で、周辺のハイマツ帯には、ライチョウが生息しています。又この山小屋・燕山荘は600人が収容できるアルプス最大級の山小屋でもあります。昔は「剛力(ごうりき)」或いは「歩荷(ぼっか)」と呼ばれる人たちが、荷物を背負子(しょいこ)に積み上げて麓から運んでおりましたが、今では2km程下にある合戦小屋まで荷揚げ用のケーブルで揚げています。燕岳の名前は、春の雪形がツバメに似ていることからつけられたとのことです。 同様に我々が中学二年の時に学校登山で登ったのが、白馬岳(標高2,932m)です。この山は日本有数の高山植物のお花畑と白馬大雪渓で有名な山です。山名の由来は春の雪解けの頃、(田圃の苗代を作る頃) 雪が解けて岩が露出し、黒い「代掻き馬」の雪形が現れることからきています。子供の頃、父親から教えられ改めて眺めたものです。この山は地元では(はくばだけ)とよんでおり、(しろうまだけ)とは言いません。又この山小屋「白馬山荘」は日本最大の収容人員を誇り、800名が宿泊出来ます。荷揚げもヘリコプターです。
懐かしい山にもう一つ、針ノ木岳(標高2,821)があります。この山は、高校時代同じ大糸線で松本に通った同窓生で大町に、百瀬君というのがおり、当時彼の親が針ノ木岳を経営しておりました。大学一年の夏休み、彼も山小屋にいると云う事で、同じ高校の同窓生、松川村の太田君と二人で彼に会いに行こうと針ノ木岳に登山したことがありました。結局、針ノ木小屋に辿り着く前に天候が崩れて、今にも雨が降りそうになり、登頂をあきらめて引き返したのですが。今彼はこの針ノ木小屋のオーナーをしております。太田君は現在、東京で著述業をしています。
三年前の夏に妻と立山黒部アルペンルートをツアーした時に室堂から針ノ木岳がきれいに見え、そのころをなつかしく思い出したものです。
私はその後、三洋電機にお世話になり退職もして、現在は札幌市内に住んでおりますが、子供の頃を思うと安曇野の風景と共に色々なことが懐かしく思い出されます。