フィジー留学記
遠国 岩雄・・・・
  会社退職後、日本語教師養成講座を1年間受け 
て、その後それを生かすべく英語力の向上をと考え
ていたところ、インターネットで丁度手ごろな価格で、
取り組みやすいフィジーでの英語留学の情報をみ
つけこれだと思い決めました。期間は英国に留学し
た娘に、「どうせ行くなら長期でないと会話力は身に
つかないよ」と云われ、1年は長いと思い8ヶ月間行
くことにました。
  出発日は1月19日、その日札幌はマイナス15
度くらいで雪でした。海外旅行は何度か経験ありま
すが、南国での長期滞在は初めてで、体が適応できるかとても心配でしたが、出発して飛行機から見るフィ
ジーの島々は回りに船も全く見えず、環礁にあたる白波と美しい砂浜が見え、楽しい生活の期待に胸が膨
らんできました。フィジーの空港におりたった時、35度くらいの熱風が吹きつけ 汗がどっと出てきましが、
音楽とダンスの歓迎に心がなごみました。
  ここでフィジーの事情を簡単に説明すると、公用語は英語で主要産業は観光・サトウキビ、人口70万で
約330の島々からなり面積は合わせて四国と同じくらいです。昔はフィジー人のみの自由な天国でしたが、
英国の植民地になりサトウキビを栽培していましたが、フィジー人はあまり働かないのでイギリス人はインド
人を移住させたそうです。
  現在は、インド人系とフィジー人が半々でその力関係で政情が不安定の様ですが、人々は意外とのん
びりとして、人情に厚く、誰とでもすぐ“ブラ”と挨拶して友達になれる様な親しさと、日本の昔にあった近所・
親戚の絆、相互扶助の精神を強く持っています。
  しかし、インフラは遅れていて水害が多く、砂利道が大部分で、水道が突然止まったり、野犬が徘徊して
いたり、街の裏に回ればゴミが散乱していたりして日本の30年位前の時代に戻った感じです。
  私のホストファミリーはインド系で、セキュリティ会社に勤める47歳のお父さんを筆頭に、料理が趣味の
45歳のお母さんと空港の出入国審査官の23歳の息子さんと18歳と13歳の学生の娘さんの5人家族でし
た。でも着いた日には家族はインド旅行中で、留守番役の親戚・使用人がおり、私はすっかりその人達が
家族と勘違いしてしまい、全てのお土産を渡し、あとから家族が帰って来て気がついたという失敗をしてし
まいました。
  最初の1ヶ月は異文化に慣れようと必死で、食事も皆に合わせてカレーを素手で食べたり、学校の方も
発音を夢中で勉強しました。
  しかし、それを過ぎると、家族同士はヒンズー語で会話するので少しも理解できず、食事も具は違うが
いつも同じカレーとナンばかりとか、学校のシステムの不満などが鬱積してきました。
  しかし、日数がたつにつれ、徐々に家庭生活、学校生活にもなれ、不満ばかり言っても自分が変わらな
ければ解決しないことわかり、また見方を変えてこの様な境遇にいられる事自体恵まれているし、逆に感謝
しなければいけないなと気がつき、それからは家庭でも自分から英語で話しかけ、日本語をホストファリー
の娘さんに教えたり、野菜が高価で不足がちだったので、その事をホストファミリーのお母さんに話すと、家
の周囲に野菜畑を作って食べさせてくれました。
  家庭でも学校でも、 不満があったらお互いの気
持ちを考えながら話し合って解決し、積極的にファミ
リー・先生・事務所と交流を図る様に心掛けました。
  また友人とミドルエイジの会を作って中年の人と
の交流、不満解消をしたりしました。今思うに英語力
も少しついきて余裕がもてる様になってきたからだと
思います。好きな釣り、珍しい貝の収集、島巡りなど
もして楽しみ、長期休暇には11日間ニュージーラン
ドの一人旅に行ったりして生活をエンジョイしました。
期の後半には極力韓国人、中国人、バングラデシュ
人のような日本人以外の人とも付き合う様にし、英語のみで会話する様心掛けました。
最後まで困ったのはお風呂で、通常の家庭ではバスは無くソーラーシャワーで、曇った日などは突然冷水
が出てきて、心臓が止まるくらいの思いをし いつまでたっても慣れることが出来ませんでした。
  期が終わる頃には、ホストファミリーも学校の方も結構スムーズに交流出来る様になり、友人も沢山でき、
卒業には学校から皆勤で、島巡りのプレゼントをもらう等自分なりにも努力が報われたと自負しております。
  8ヶ月間はとても短く、ホスト家族・友人達と別れるのがつらく身を切られる思いでした。
  このような体験をさせてくれた家族と、多くの皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。是非皆さんも
異文化体験をしてみてはいかがですか?良い人生経験になると思います。